『上品な女』キャラは「あの若者を何とか助けられないでしょうか」とは言っても「あの若者を何とか助けられないか」とは言わない。だが,この観察は,
若者を何とか助けられないか――貴婦人は懸命に考えた。
のような,心内の思考が表現される場合には必ずしも当てはまらない。前回述べたことだが,発話キャラクタの他に思考キャラクタを設けて区別するのは,一つにはこうした観察記述の一貫性のためである。
もちろん,このような観察記述の一貫性は,そもそも「あの若者を何とか助けられないか」のように思考がことばで表現されてはじめて問題になることである。発話キャラクタは発話がありさえすれば想定できるのに対して,思考キャラクタは思考がことばで表現されなければ想定できない。この点でも思考キャラクタと発話キャラクタは異なっている。これも前回述べたことである。
『上品な女』であっても,その思考が上のように「~助けられないか」と表現できるように,思考キャラクタは発話キャラクタほどの「濃さ」(補遺第14回)を持ってはいない。つまり「話しぶり」は人によってさまざまだが,「考えぶり」については個々のキャラクタの違いが中和されがちであって,「話しぶり」ほど人それぞれではない。
但し,思考キャラクタが単に「薄い発話キャラクタ」として片付けられるというわけではない。たとえば『神』は,発話キャラクタとしては天から降ってくるおごそかな低い声の発し手がイメージできるが,思考キャラクタとしてはイメージし難い。そもそも思考内容が見透かされてしまうようでは『神』失格である。またたとえば,「武士は口が堅いなり」「夏休みももう終わりなり」などと何を言うにも文末に「なり」を付けるコロ助(藤子不二雄のマンガ『キテレツ大百科』の登場人物)のような濃いキャラクタは,思考であってもそう簡単に「なり」を外すわけにはいかないだろう。
さらに複雑な事情もある。それは,思考キャラクタの薄さが構文によって異なるということである。たとえば,
なんだかあやしいな――貴婦人はいぶかしんだ。
があまり自然でないことからすれば,終助詞「な」は『上品な女』の思考を表すことばとしてはふさわしくないと思える。だが,その一方で,
それでわたくしも,なんだかあやしいなって思いましたの。
という当の貴婦人の発言はごく自然に聞こえる。つまり『上品な女』キャラは,思考内容が自身によって報告される引用構文の場合に最も薄くなる。この構文で自然さが高くなることばは「な」の他にも,「それでわたくしも,外は雨なんだって思いましたの」の「だ」,「それでわたくしも,田中さんはお留守なんだろうって思いましたの」の「だろう」,「それでわたくしも,救急車を呼んだ方がいいって思いましたの」の「いい」,「それでわたくしも,これはちょっとあぶないぞって思いましたの」の「ぞ」など,さまざまなものがある。
とはいえ,さすがに「それでわたくしも,これは殺人だよなって思いましたの」「それでわたくしも,大変なことになったぜって思いましたの」などは無理がある。「よな」や「ぜ」は中和の域を超えており,『男』キャラの色合いがあるということだろう。