日本語社会 のぞきキャラくり

補遺第84回 「キャラ化」について

筆者:
2015年4月26日

日本の社会が「キャラ」を切り口に論じられるということは,もはや今日では珍しいと言えないかもしれない。だがその中でも,相原博之氏の『キャラ化するニッポン』(講談社現代新書,2007)は,射程の幅広さで異彩を放っている。

人々が「生身の自分」よりも「キャラとしての自分」に親近感やリアリティを感じるようになる「アイデンティティのキャラ化」。マンガの中で描かれる「キャラ的身体」が人々のあこがれの対象となり,実写ドラマ化という形で「生身の身体」がそれを追いかける「身体のキャラ化」。最近の若者たちによるコミュニケーションの皮相化という「コミュニケーションのキャラ化」。マンガを地で行くような「政治のキャラ化」。新興企業が実体とかけ離れた魅力的な企業イメージで膨張する「経済・企業のキャラ化」。人々が消費対象の「全体」にではなく,「部分」(キャラ属性)にしか魅力を感じなくなる「消費のキャラ化」。と,実に様々な現象が「キャラ化」というキーワードのもとに論じられている。

「キャラ化」とは何か? それは「端的に言えば,現実社会をキャラ的に生きる生き方を指した言葉」(p. 178)だと言う。では,その前提となる「キャラ」という概念は,どのように捉えられているのかというと,なんと伊藤剛氏による「キャラクタ(character)」「キャラ(Kyara)」の定義(補遺第81回第83回を参照)が持ち込まれているではないか(pp. 120-124)。もちろん,伊藤氏の区別はマンガ論の中でなされたもので,相原氏もそれを「拡大解釈」して取り込んでいるようなのだが,う~ん,これがなかなか難しい。たとえば「蛯原友里というキャラクターと「エビちゃん」というキャラ」(※)(p. 148)と述べられているあたり,伊藤氏の定義との関係が明確でないと感じてしまうのは私だけだろうか。

むしろ相原氏の「キャラ化」の多くは,「キャラクタ(=物語の登場人物)化」と考えた方が,氏の観察は活きるのではないか。現実世界を生きる私たちも,物語世界を生きる登場人物も,基本的には変わりがない。だが,鑑賞作品である物語はしばしば単純化され,登場人物のキャラ変わりは通常,抑制される(それが起きたのが「アルムおんじ」のラップなどである(前回))。つまり物語世界の登場人物は単純なものになりがちである。

伊藤氏の「キャラ」定義を紹介した上で,相原氏は「社会がキャラ化するということは社会が「比較的に簡単な線画」で描けるようなものになるという意味に置き換えることもできる。これは,もちろん「キャラ化した人間」に置き換えても同様だ」(p. 123)と「拡大解釈」をおこなっている。だが,この「簡単さ」は,物語世界の登場人物の単純さと「拡大解釈」することも可能なのではないだろうか。

※蛯原友里というファッションモデルの愛称が「エビちゃん」、とwikipediaには解説されている。

筆者プロフィール

定延 利之 ( さだのぶ・としゆき)

神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

最新刊『煩悩の文法』(ちくま新書)

編集部から

「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。