日本の社会が「キャラ」を切り口に論じられるということは,もはや今日では珍しいと言えないかもしれない。だがその中でも,相原博之氏の『キャラ化するニッポン』(講談社現代新書,2007)は,射程の幅広さで異彩を放っている。
人々が「生身の自分」よりも「キャラとしての自分」に親近感やリアリティを感じるようになる「アイデンティティのキャラ化」。マンガの中で描かれる「キャラ的身体」が人々のあこがれの対象となり,実写ドラマ化という形で「生身の身体」がそれを追いかける「身体のキャラ化」。最近の若者たちによるコミュニケーションの皮相化という「コミュニケーションのキャラ化」。マンガを地で行くような「政治のキャラ化」。新興企業が実体とかけ離れた魅力的な企業イメージで膨張する「経済・企業のキャラ化」。人々が消費対象の「全体」にではなく,「部分」(キャラ属性)にしか魅力を感じなくなる「消費のキャラ化」。と,実に様々な現象が「キャラ化」というキーワードのもとに論じられている。
「キャラ化」とは何か? それは「端的に言えば,現実社会をキャラ的に生きる生き方を指した言葉」(p. 178)だと言う。では,その前提となる「キャラ」という概念は,どのように捉えられているのかというと,なんと伊藤剛氏による「キャラクタ(character)」「キャラ(Kyara)」の定義(補遺第81回~第83回を参照)が持ち込まれているではないか(pp. 120-124)。もちろん,伊藤氏の区別はマンガ論の中でなされたもので,相原氏もそれを「拡大解釈」して取り込んでいるようなのだが,う~ん,これがなかなか難しい。たとえば「蛯原友里というキャラクターと「エビちゃん」というキャラ」(※)(p. 148)と述べられているあたり,伊藤氏の定義との関係が明確でないと感じてしまうのは私だけだろうか。
むしろ相原氏の「キャラ化」の多くは,「キャラクタ(=物語の登場人物)化」と考えた方が,氏の観察は活きるのではないか。現実世界を生きる私たちも,物語世界を生きる登場人物も,基本的には変わりがない。だが,鑑賞作品である物語はしばしば単純化され,登場人物のキャラ変わりは通常,抑制される(それが起きたのが「アルムおんじ」のラップなどである(前回))。つまり物語世界の登場人物は単純なものになりがちである。
伊藤氏の「キャラ」定義を紹介した上で,相原氏は「社会がキャラ化するということは社会が「比較的に簡単な線画」で描けるようなものになるという意味に置き換えることもできる。これは,もちろん「キャラ化した人間」に置き換えても同様だ」(p. 123)と「拡大解釈」をおこなっている。だが,この「簡単さ」は,物語世界の登場人物の単純さと「拡大解釈」することも可能なのではないだろうか。
※蛯原友里というファッションモデルの愛称が「エビちゃん」、とwikipediaには解説されている。