絨毯屋の話ですっかり脱線してしまったが(これについては次々回触れる)、スタイルと違ってキャラクタは、変わらないことが期待されているというのが、これまでの話であった。では、キャラクタが変わってしまうとどうなるか。「みっともない」ということになるのだ。
些細なことで店員ともめて、ふだんのおしとやかさはどこへやら、怒りのあまり、ことばづかいや顔つきまで変わってまくし立てている女性を見つけた友人たち(?)が冷ややかに言う「あの子、キャラ変わってるじゃん(笑)」ということばは、このことを端的に示している。
林芙美子の『放浪記』には、同棲していた男が、やがて故郷の村に帰って音信を絶ち、たずねてみると家族の反対で結婚を翻意しているというくだりがある。当然ながら主人公(私)はショックを受け、男に絶望するが、男を道義的に非難する記述はない。その代わり繰り返し提示されるのは、同棲中と今との、男の様変わり、というか「キャラ変わり」である。
同棲中はあんなに「勇ましい」と思えていた男、「俺を信じておいで」と言っていた男、それがここでは「気の弱い男」に変わり果て、主人公の突然の来訪に驚いて「眼をタジタジとさせ」、「首をたれ」て父親の言葉を聞き入れ「一言も云ってくれない」。
菓子折を置いて帰る主人公に「追いすがった男」は、菓子折を返して来いと母に言われたと言い、「お話にならないオドオドした姿」で、主人公がその菓子折を海へ投げ捨てた後も「犬のように何時までも沈黙って」「ついて来」る。
つまり男は、重大な約束を反故にした悪者というよりも、ひたすらなさけない奴という形で描かれている。男にとってはこの方が酷かもしれない。なぜなさけないかというと、キャラを貫けず、変えてしまっているからである。「俺は相手に応じてスタイルを変えているだけ」などという言い訳は通用しないだろう。スタイルとは異なり、キャラクタは相手に応じて「変えてはいけない」。キャラクタを一貫させられないのははずかしいことであり、他者の人物イメージが一貫していないと指摘することは、その人間をおとしめる上で、道義に訴える以上の効果をもたらすことさえある。
このように日本語社会では、「キャラ変わり」の指摘は他者を攻撃するきわめて強い手にもなり得る。だからこそ、それが同情すべき人物であれば、あえて相手の弱みに踏み込まないといった、指摘の差し控えが見られることもある。
福永武彦『草の花』に登場する汐見という肺病患者は、サナトリウムでいつも超然としている。だが実は、別のBサナトリウムにいた頃に自殺未遂を起こした過去を持ち、クリスチャンでもある。Bサナトリウムの患者はこの情報を「こんなこと喋っちゃ悪いかな」と言いつつ、「面白い話」として主人公に告げる。汐見と交流のある主人公は「全然汐見らしくない。別の人の話を聞くみたいだ」と驚き、この話を汐見に持ち出すことをはばかる。
ここで、悪いと知りつつ面白がられていること、また、親しい間柄では持ち出さないよう気を配られていることも、「キャラ変わり」にほかならない。