ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い、という言いまわしがある。発音にまつわるジョークであるが、ことは固有名詞だけに、口もとを歪めたゲーテの顔を想像できる。わたしの勤務する大学で、知り合いのドイツの大学の先生の講演会があった。ポスターが貼り出されたが、「信行」の名が、誤って「伸之」となっていた。すぐに気づいて事なきをえたが、わざわざポスターを作り直さなくとも、本人以外は困惑したり不快に感じたりしなかったかもしれない。よほどの有名人でなければ、固有名詞は一般的な情勢には、あまり影響を与えない。とはいえ本人にとっては、アイデンティティと係わり、ときには死活問題となる。固有名詞は存在にふれている。
歴史は様ざまな存在をおおい隠してきた。たとえばイマヌエル・カントの場合。手もとの百科事典には、ケーニヒスベルク生れとある。だが、この地名は現在使われていないので、地図には見あたらない。『ブリキの太鼓』のギュンター・グラスは、ダンチヒ生れとあるが、現グダニスクと添えられている。かつて中欧で数百年のあいだ勢力を誇ったハプスブルク帝国は1918年に滅んだが、公用語がドイツ語であったので、プラハはプラーク、リュブリャーナはライバハ、ボルツァーノはボーツェンと呼ばれていた。ハプスブルク帝国時代の小説を読んでいると、どこの都市の話なのかわからないときがある。
今回の『クラウン独和』の改版で固有名詞を担当した。それをいいことに、表紙裏の地図にかつてのドイツ名を括弧に入れて表示することを提案した。これで少しは便利になった、と得意におもった。しかし、問題がないわけではない。ドイツ国歌に「マース川からメーメル川まで、エッチュ川からベルト海峡まで」とあり、現在、この歌詞は歌われていない。調べてみると、マース川はオランダに、メーメル川はリトアニアに、エッチュ川は北イタリアに、ベルト海峡はデンマークにある。ドイツ名を地図に記入することで、ドイツの古いナショナリズムに触れる居心地の悪さをおぼえた。だが、そこにはかつてドイツ語を使う人がいたということなのである。