クラウン独和の仕事に参加したのがもう20年近く前になるが、その頃独独辞典で「パスタ」を引くと、随分長々とした説明があるので興味をもって読んでみると、「挽肉をみじん切りのタマネギとトマトで煮込み…」と、いわゆる「ミートソース」の作り方が不手際に書いてあるのを発見して、驚いたものであった。もうお忘れの方が多いかと思うが、長いこと日本でも、スパゲティと言えば、「ミートソース」と「ナポリタン」の2種類しかなく、必ずケチャップで「赤い」ものだった。私の友人などは、20年前に初めて「白い」スパゲティを見たときに、これはてっきりケチャップをかけ忘れたのだと思い、テーブルにあったそれらしきソースをスパゲティが「赤く」なるまで振りかけたところ、これがタバスコソースだったので、目から火が出たという経験をしているほどだ。(因みにアメリカ産のタバスコソースをイタリア料理店で必ず置くようにしたのも、日本だけだった。)
既に20年前と言えば、ドイツは意外にイタリアレストランが良い、などと通筋に言われていて、その気になれば簡単に本格的なイタリア料理が食べられたのだが、上のパスタの事例を見ると、独々辞典の執筆者である諸先生を始め、一般のドイツ人にはまだまだ本格的イタリア料理は普及していなかったらしい。
個人的な経験に加えて、世相を反映するので、辞書における「食」に関する記述は難しい。たとえば「炉端焼き」のようなスイス料理ラクレットRacletteをきちんと説明できた辞書にはお目にかかったことがない。私自身もできなかったが。どの辞書も大抵、自分がたまたま食べたラクレットの一種の説明に言を費やしている。
出来合いの料理を食べることばかりが「食」ではない。もっと難しいのは「作る」方の語彙だ。例えば中華鍋Wokがこれほど普及し(ついにドイツ製高級Wok鍋が日本に輸入されていたりする)、Wokを使った炒め料理がドイツの家庭に普及するようになるとは、思いもしなかった。聞けば、そもそもドイツには「炒める」にぴたりと当たる言葉は(従って料理方法そのものも)なかったのだということだ。焼く(braten)、煮る(kochen)、揚げる(frittieren)、炒め煮する(schmoren)、蒸す(dämpfen)、蒸し焼きにする(dünsten)、等のヴァリエーションは豊富だったのに。これらの料理法の区別が実感できていないと、辞書も書けない。