今日では外国語辞書の見出し語の配列はアルファベット順であるのがふつうだが、辞書の歴史を調べてみると、揺籃期にはテーマ別の辞書もあった。集めた語彙を編纂者の世界観に従って整理し、論理的に順を追って展開し配列するテーマ別の語彙集は、学習にも適している。相互に関連する単語がアルファベットの前後に分散するのは支離滅裂で、知識の整理・統合にはならない。語や語句が表す観念に従って配列して語彙の集大成を目指す中世から近代初頭のヨーロッパの百科全書的な書物の編纂者たちの頭には、単語をアルファベット文字に分解してみる発想はなかった。
わが国の独和辞書の歴史を振り返ってみると、1862年(文久2)冬に幕府の洋書調所が発行した『官版獨逸單語編』が静岡県立中央図書館に残っている。黄色の和綴じ表紙で和紙両面木版刷り25葉に、およそ1,800語を手書き筆記体で収めていて、まだ辞書とはいえない単語集であるが、この書では単語は次の22項目に分類されている。Von der Welt und den Elementen; Von der Zeit und der Jahreszeiten; Vom Essen und Trinken; Von der Blutsverwandtschaft; Vom Menschen und dessen Theilen; Von den Zufallen der Krankheiten und Mangeln des Menschen; Von Gewerben und Handwerken; Von Manns und Frauen-Kleidern; Vom Studieren und Schreiberei; Von den Theilen des Hauses und vom Hausrath; Was man in der Kuche und in dem Keller findet … 例えばVom Essen und Trinkenには次の単語が2列に並んでいる。das Brot. 麺包 der Wein. 酒 das Bier. 麦酒 das Fleisch. 肉 der Fisch. 魚 Gesottenes. 煮肉 Gebratens. 焙肉 eine Pastete. eine Suppe. 羹 … eine Pasteteの欄には訳語がなく空白である。
この『官版獨逸單語編』に先立つ1854年(嘉永7)の刊行とみられる『佛英獨三語便覧』(村上松翁撰 達理堂)の「再刻」三巻木版刷りが国立国会図書館に残っている。これは日本語を最初に掲げて対応する佛蘭西語、英傑列語、獨逸語を手書き筆記体で記すもので、約3,500の日本語が、天文、地理、身體、疾病、家倫、官職、人品、官室、飲食 … など29項目に分けて挙がっている。例えば初巻の第1ページ天文の項は、天地既成(テンチノハジメ) chaos. chaos. chaos. 物(モノ) matiere. stuff. stoff. 自然(シゼン)nature. nature. natur. 全世界(ゼンセカイ) univers. universe. welt. … で始まる。
テーマ別に対し、不変で無意味で無機質なアルファベット順は、万人向きで検索にも便利である。辞書の配列がテーマ別からしだいにアルファベット順に移行したのは、語彙数の増加や学問の普及に伴う自然の成り行きであるが、編纂者の単語に対するアプローチが変化し多角的になったことや、活字の発達など印刷術の進歩もこれに大きく関わっている。