前回と前々回で,『ハリー・ポッター』の呪文がラテン語もどきになっていることを確認しました。ラテン語には由緒が正しく,むずかしい学問的なイメージがあるので,真性型呪文にはぴったりだったわけです。
ラテン語のイメージと呪文の関係を確認するのに,おもしろい事例があります。『ハリー・ポッター』では,登場人物が唱える呪文が成功しないことがときどきあるのですが,なかでも呪文自体に問題があると考えられる例が,小説では私の知るかぎりふたつあります。そのどちらも,ラテン語とは似ても似つかない代物なのです。失敗する呪文にも作者の意図が込められている。そのことを観察しましょう。
ひとつは,第1作目の『賢者の石』で,ハリーの親友ロンがホグワーツ魔法学校に向かう汽車のなかで試みる呪文です。(映画では,同様の呪文がもう一度別の場面で笑いを取るために使われています。)
(19) Sunshine, daisies, butter mellow, Turn this stupid, fat rat yellow. お日さま,ひなぎく,熟したバター, このアホなでぶネズミ,黄色にかーわれ
間の抜けたなかにも詩的な雰囲気のある呪文(?)です。黄色を連想させるもの――日の光,ヒナギク(の花の中央部分),バター――に呼びかけて,自分の飼っているネズミの毛を黄色にしようとしました。でも,ネズミは寝たままです。何も起こりません。
この呪文は,形としては,真性型呪文ではなく普及型呪文と言えそうです。「このアホなでぶネズミ,黄色にかーわれ」が呪文で行う内容を知らせる「効能説明」です。そして,その前にくる「お日さま,ひなぎく,熟したバター」の部分が,「呪術的前付け」に当たります。「ちちんぷいぷい,イタイのイタイの飛んで行け―」で言うところの「ちちんぷいぷい」の部分です。単語それぞれの意味は分かりますが,なぜ3つのもの(お日さま,ひなぎく,熟したバター)が結びつけられているのか,少し考えないと分かりません。付言すると,daisy(ヒナギク)の名称はday’s eye(日の眼)に由来し,太陽と深い関わりがあるそうです。
この呪文のユニークな特徴は,やはり,ひとつひとつの単語の意味がはっきりと分かることです。しかも,全部,英語の日常的な単語です。『ハリー・ポッター』で用いられるほかのまじめな呪文が,外来語,なかでもラテン語の雰囲気を持っていたのと大きく異なります。
おまけに,stupid(馬鹿な)やfat(太い)といった,自分の愛鼠(?)を偽悪的にけなす表現が入っていて,呪文と言うより会話的な調子になっています。
これにまともな効能があると信じるのは,「イタイのイタイの飛んで行け―」を信じるようなものです。効き目がないことは,呪文の姿かたちからもじゅうぶん予測できます。
実際,この呪文は,いたずら好きな双子の兄たちがロンにふざけて教えたものです。いたいけなロンは,まんまと騙されていたわけです。