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第54回 『ダンス・ウィズ・ウルブズ』のインディアン

筆者:
2013年5月30日

では,『アバター』と『ダンス・ウィズ・ウルブズ』において,どのようなかたちで観客の解釈が誘導されているかを確認しましょう。まずは,ケビン・コスナー監督・主演の1990年の映画『ダンス・ウィズ・ウルブズ』からです。

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『ダンス・ウィズ・ウルブズ』は,アメリカ・インディアンを共感的に描いた西部劇です。領土拡張政策をとるアメリカ政府によって自分たちの土地を追われてゆくインディアンの姿をとらえています。

あらすじは(途中までですが)次のようなものです。南北戦争の英雄,ジョン・ダンバー中尉は,自ら志願してフロンティアの前哨地にひとり赴きます。そこでスー族と交流を深めた主人公は,その文化に安らぎを見出します。そして,スー族に育てられた白人の女性(「拳を握り立つ女」(Stands with a Fist))と恋に落ち,スー族の生活に溶け込んでいきます。あるときスー族の集落から前哨地に戻ったダンバーは,インディアンの服装をしていたため,そこに駐留してきた騎兵隊にインディアンと間違われ,捕らえられてしまいます。いわれのない暴力にさらされ護送されてゆくダンバーを助けるために,スー族は騎兵隊を襲撃します。ダンバーもその際に騎兵隊員を自らの手で殺害するのです。

伝統的な西部劇(私はウェスタン映画にあまりくわしくないのですが,1930年代から1950年代くらいのものを念頭に置いています)で騎兵隊といえば正義の象徴です。そして,インディアンは悪者です。ですが,観客のまなざしは,騎兵隊の小隊を全滅させたスー族と主人公ダンバー中尉の側にあります。これは,『アバター』において,人類に対して戦いを挑む異星人ナヴィと主人公ジェイクに観客が共感するのとよく似ています。

つまり,本来ならマジョリティの観客により近いはずの騎兵隊(白人)や人類が敵側に回り,逆に距離を置くはずのインディアンやナヴィ(異星人)のほうに,観客はより親近感を感じるのです。これはどのような理由によるものでしょうか。

『ダンス・ウィズ・ウルブズ』について言えば,インディアンの描かれ方が以前の伝統的な西部劇と大きく異なります。この映画では,彼らは素朴で誠実な人々として登場します。独自の文化を持ち,自然を敬い,自然と共生する。ところ構わず火を焚いてしまう白人とは異なる存在です。

古典的な西部劇では,インディアンはたいてい,野蛮な未開人として,白人社会を脅かす異質な要素として,特徴づけられていました。そこでの彼らは,ちょうど敵対的なエイリアンのように,排除されるべき存在でしかないのです。

しかし,この映画のインディアンはそのようなステレオタイプとは無縁です。いや,そのようなステレオタイプのアンチテーゼとしてこの映画のインディアン像はあるのです。映画のなかでは,白人の生活ではなく,インディアンの生活が前面に繰り広げられます。だから,インディアンひとりひとりの表情が観客に見えてきます。インディアンは,もはや名前と顔のない敵対的な記号ではなく,主人公と同列に並ぶ仲間として描かれます。

これが,『ダンス・ウィズ・ウルブズ』の基調です。伝統的な西部劇において駆逐すべき対象として描かれていたアメリカ・インディアンに対し,観客が感情移入する素地がここに生まれました。

この映画には,さらに白人に背を向けるための仕掛けがあります。それは,単純なようですが,白人の醜い姿をさらすことです。それも徹底して。

『ダンス・ウィズ・ウルブズ』の白人像については,次の機会に。

筆者プロフィール

山口 治彦 ( やまぐち・はるひこ)

神戸市外国語大学英米学科教授。

専門は英語学および言語学(談話分析・語用論・文体論)。発話の状況がことばの形式や情報提示の方法に与える影響に関心があり,テクスト分析や引用・話法の研究を中心課題としている。

著書に『語りのレトリック』(海鳴社,1998),『明晰な引用,しなやかな引用』(くろしお出版,2009)などがある。

『明晰な引用,しなやかな引用』(くろしお出版)

 

『語りのレトリック』(海鳴社)

編集部から

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