1922年3月18日、山下は兵庫県御影師範学校で、「国字改良トタイプライター」と題する講演をおこないました。この講演において、山下は、カタカナ横書きこそ日本語の「書字」が進化すべき方向であり、そのためには横書きカナタイプライターを製作することが最重要課題である、という持論を、350名の聴衆の前でブチ上げました。それと同時に、「Remington Portable」カナタイプライターのために設計したカナキー配列を、山下は披露しました。
「Remington Portable」は42キーなので、それに合わせて42キーのキー配列とし、右手小指に濁点と半濁点を置いた上で、濁音となりうるカナ(カ行サ行タ行ハ行)は左手に配置することで、濁音あるいは半濁音が、左手右手交互打ちとなるよう設計していました。このキー配列を持つ「Remington Portable」横書きカナタイプライターは、すでに1台だけ特注品として製作されており、上野で開催されている平和記念東京博覧会で陳列中だ、と山下は付け加えました。しかしながら、この特注品は、カナ活字を無理矢理「Remington Portable」に埋め込んだものだったために、活字の厚みが揃っておらず、キーボードには紙でカタカナが貼られている、というお粗末なものでした。しかも、濁点や半濁点が1文字分とってしまうために、ガギグゲゴやパピプペポなどの濁音や半濁音を含む単語が、かなり不恰好になってしまうのです。ちゃんとした「Remington Portable」横書きカナタイプライターを、山下は待ち望んでいたのです。
その一方で、住友製鋼所における内紛は、もはや住友総本店においても、理事会の目に余る状態になっていました。支配人の工藤と副支配人の細矢が、ことあるごとに対立しており、住友製鋼所の幹部社員たちも、工藤派と細矢派に分かれて、内部抗争を繰り返していました。そして、1922年4月25日、住友総本店の理事会は、山下、工藤、細矢をはじめとする幹部社員10名を、住友製鋼所から総辞職させることを決めました。ただ、総辞職とはいっても、あくまで住友製鋼所から辞職させるだけであり、それぞれ住友伸銅所や住友電線製造所など別の役職に就かせて、住友製鋼所の人事を一新しようとするものでした。しかし、山下は、別の役職に就いたままになるのを、よしとしませんでした。住友銀行からも住友伸銅所からも住友電線製造所からも完全に辞職し、住友を離れる決意をしたのです。50歳の山下は、「カナモジ ウンドゥ」に残りの一生を捧げる決意をしたのです。
(山下芳太郎(38)に続く)