『ダンス・ウィズ・ウルブズ』は,アメリカ・インディアンの誠実で暖かみのある姿を丹念に伝える一方で,白人の強欲で醜いありさまを執拗に描きました(第54回と第55回を参照ください)。観客を白人の立場からアメリカ・インディアンの視点へと導くためです。
そして,『アバター』では『ダンス・ウィズ・ウルブズ』の観客誘導の方法がそっくり踏襲されています(第56回)。母なる自然を敬う異星人ナヴィの文化や生活が丹念に描かれると同時に,人類(RDA社側の人間)の強欲で無知な姿が強調されます。人類ではなくエイリアンの立場から,体長3メートルの青い肌の巨人ナヴィ族の視点から物語を眺めるためです。
ふたつの映画は観客の解釈を巧みに誘導します。映画がエンタテイメントとして成功するためには,観客が同じ解釈を共有し,主人公がとった行動について観客がじゅうぶんに納得いくものでなければなりません。このふたつの映画はその点において概して成功していると言えるでしょう。
もっとも,『アバター』は,すべての合衆国国民を味方につけられたわけではありません。一部の保守派にとって『アバター』は反アメリカ的な映画に映るようです。元海兵隊の将校クオリッチ大佐が指揮する軍隊――RDA社の傭兵部隊なのですがアメリカ軍と重なって見えるようです――が悪者として描かれているからです。しかも,ナヴィの住処であるホームツリーへの攻撃は9.11の同時多発テロになぞらえられたため,クオリッチ大佐と配下の軍隊はテロリストと同列に置かれてしまいました。
しかし,こうした批判は映画製作者には織り込み済みのことだろうと思います。なぜなら,『アバター』は先のブッシュ政権に対するアレゴリーでもあるからです。最後の決戦を前にして,傭兵部隊の隊長クオリッチ大佐は兵士に対し演説を行います。そのことばがとくに保守派の癇にさわったのではないでしょうか。
(72) QUARITCH: Our only security lies in pre-emptive attack. We will fight terror with terror. (われわれの安全保障は先制攻撃にある。テロにはテロで戦うのだ。)
クオリッチのせりふに出てくる”pre-emptive attack”(先制攻撃)は,ブッシュ政権が2002年の国家安全保障戦略に関する方針として打ち出した考えを想起させます。すなわち,国家の安全保障が大きな脅威にさらされている場合,敵の攻撃開始時期が明確に判明せずとも,アメリカは先制攻撃を行う用意がある,とした考えです。
その後に続く”fight terror with terror”(テロにはテロで戦う)もブッシュ政権時代以降に流布された言い回しです。もちろん,ブッシュ大統領自身がこのような「目には目を」的な直截なことばを口にしたわけではありません。しかし,このことばには,テロリズムを一掃するためには容赦はしない,という保守派の強い態度が窺えます。
つまり,ブッシュ政権や強硬な保守派の言説が,悪役の大佐の口から語られるわけです。しかも,大佐たちは9.11の攻撃を仕掛けた側になぞらえられています。テロにはテロで戦うということばに強烈な皮肉が響きます。『アバター』にはこのような毒も隠されているのです。
さて,『ダンス・ウィズ・ウルブズ』と『アバター』は,観客誘導のために同様の手法をとったことで一致しますが,対照的な点もあります。『ダンス・ウィズ・ウルブズ』には,アメリカ・インディアンを悪者の記号として扱うハリウッド映画の偏見を正すという社会的な功績がありました。そして,『ダンス・ウィズ・ウルブズ』はアカデミー作品賞を受賞し,ケビン・コスナーも監督賞をとりました。
他方,『アバター』は,史上最高の商業的成功を収めたものの,そして革新的な映像で観客を圧倒したものの,作品賞には届きませんでした。『アバター』は『ダンス・ウィズ・ウルブズ』が果たしたような社会的貢献とは無縁ですし,また『ダンス・ウィズ・ウルブズ』の手法を踏襲するなど,ストーリーの展開に斬新さを欠いています。一部の保守派を敵に回したことも影響したかもしれません。
同年のアカデミー作品賞と監督賞は,ジェームズ・キャメロン監督の前妻であるキャスリン・ビグローが,『ハート・ロッカー』でさらってゆきました。映画としての存在感は明らかに『アバター』のほうが大きいですが,妙な巡り合わせになったように思います。
『アバター』に関する論考は今回でおしまいです。次回からはサクセス・ストーリーの語り方についてお話しします。