死を前にして逃げ惑うネズミの姿に語り手の心は乱され,その描写はハチの死を認めたときよりも語り手が出来事の渦中にいるかのような度合いを強めます。もっとも,そうは言っても、ネズミに関する描写がすべて眼前で繰り広げられる訳ではありません。イモリの前に、その点をまず確認しておきます。
語り手は「淋しい嫌な気持ち」でネズミの様子に思いをはせます。
(92) 自分が希(ねが)っている静かさの前に、ああいう苦しみのある事は恐ろしい事だ。死後の静寂に親しみを持つにしろ、死に到達するまでのああいう動騒(どうそう)は恐ろしいと思った。自殺を知らない動物はいよいよ死に切るまではあの努力を続けなければならない。今自分にあの鼠のような事が起こったら自分はどうするだろう。自分は矢張り鼠と同じような努力をしはしまいか。 (編集部注:ルビは実際には傍ルビ)
語り手はもがき逃げ惑うネズミに自分の姿を重ねますが,ネズミに完全に感情移入してしまうわけではありません。上の引用では「ア」系の指示詞が4度繰り返されます。ネズミが経験した苦しみや「動騒」は一定の距離を置いて想起されています。
ハチのときは静まった心で余裕を持って眺めていた語り手は,逃げ惑うネズミに心を揺さぶられながら,その動きを追いかけます。ハチのときにくらべると臨場感の伴った描写が行われますが,一定の距離感もそこには存在します。
これに対し,死のまさにその瞬間を経験するイモリの場面では,状況の迫真さがより強まります。以下は,第67回でも見ましたが,語り手が「小鞠ほどの石」をイモリに「投げてやった」直後の記述です。
(93) 石の音と同時に蠑螈は四寸ほど横へ跳んだように見えた。蠑螈は尻尾を反らし、高く上げた。自分はどうしたのかしら、と思って見ていた。最初石が当ったとは思わなかった。蠑螈の反らした尾が自然に静かに下りて来た。すると肘を張ったようにして傾斜に堪えて、前へついていた両の前足の指が内へまくれ込むと、蠑螈は力なく前へのめってしまった。尾は全く石についた。もう動かない。蠑螈は死んでしまった。
時間にして何秒でしょうか。石が当たった瞬間からものの5秒もたたない時間は,小説のなかで引き延ばされます。イモリは,「横に跳んだように見え」,「尻尾をそらし」たかと思うと,その尾が「静かに下りて」くる。すると,「両前足の指が」まくれ込み,「前へのめって」しまう。
イモリの瞬時瞬時の動きが非常に細やかに,そして的確にとらえられています。観察されたひとつひとつの動きは時系列にそって並べられます。物語の時間の進行はいきおい緩やかになります。語る内容が多いからです。加えて,その合間に語り手の感想(「自分はどうしたのかしら、と思って見ていた。最初石が当ったとは思わなかった。」)が差し挟まれるので,時間の進行はさらに遅くなります。私たちはイモリの死をあたかもスローモーションでの再生を眺めるように経験するのです。
しかも,イモリの尾,肘,そして「両前足の指」というふうに,語り手の視線は次第に細部へと移ってゆきます。視点が非常に近い。対象に対し接写しているかのような感じです。死にゆくイモリを語り手は――そして私たちは――目の当りにするのです。
見つめる行為に対する集中度が物語の進行に伴って高まってゆくのが感じられます。語り手が丹念に対象を眺める印象が作品を通して強められてゆくのです。第62回の(78b)で取り上げた「語り手はじっと見つめている」という感想の源はこのあたりにあるのだと思います。
さて,「城の崎にて」における小動物の描写は,ハチを眺めることで穏やかに開始されました。しかし,瀕死のネズミに出会ったことで描写は臨場感を高め,語りの調子も静かさから,もがき苦しむ「動騒」へと変化します。
しかしそれでも,「ア」系の指示詞の連続に見られるように,語り手と観察される対象(ネズミ)とのあいだには一定の距離感が存在していました。他方,イモリの死は,語り手自身が引き起こしてしまったことにも関係しますが,語り手の目の前でゆっくりとしかし着実に容赦なく進行します。死という現象が何物の介在もなく直に提示される。そのような印象を持ちました。死の瞬間に接するにはふさわしいレトリックではないでしょうか。
第66回,67回で確かめたように,小動物について語る順序は動かせない構造になっていました。死の周辺から核心へと至る順序です。この順序に呼応して語り手の小動物に対する描写の態度や距離のとり方も変わってゆきます。つまり,物語のテーマと順序と語り方が密接に結びついているのです。「城の崎にて」は,このようにとても緊密なテクストを構成しています。まとまりがよいという印象(第62回の(78c))を読者に引き起こすのも当然と言えるでしょう。