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第80回 笑いとまじめ:ふたつの婉曲法

筆者:
2014年8月28日

まじめな婉曲法は,タブーに言及する機会をできるだけ目立たせることなく,上品に事を済ませようとします。これに対し,笑いの婉曲法は発話者間の良好な関係を確認しつつ,タブーを笑って乗り越えていきます。笑いの婉曲法について,もう少し具体的に考えてみましょう。

(107)  a. お通じが悪くて3日もダウンロードしてないの
 b. 爆弾を落としてくるであります
 c. ちょっと横浜に行ってきます

(107)はすべて排泄にかかわる表現です。辟易されたかもしれませんが,もう少しご辛抱を。(107a) は第76回に例として取り上げました。ネット上にある重めのファイルを端末に下ろしてくるイメージで排泄行為をとらえます。あまりにも具体的で分りやすい肉体的行為を,「ダウンロード」という抽象的で比喩的にしか言及できない現象(「ダウンロード」(download) とは,もともとは「積み荷」(load) を「下ろす」(down) ことを指します)にたとえたことで,避けておきたい排泄のイメージが「ダウンロード」ということばに染み付いたかの印象すら覚えます。一方,(107b) は排泄物を爆発物に見立てますので,さらに派手な効果を伴います。

タブーに見立てを用いると,しばしば笑いが引き起こされます。タブーの概念(この場合は排泄行為)と見立てに用いられた概念((107b) なら爆発物),これら異なる2種類の概念が同居するからです。(ちなみに,ふたつの異なる概念が同時に想起される違和感が笑いを引き起こす,という考え方は笑いの現象の説明として有力なものとされています。)また,見立てを用いることで表現が間接的になることも笑いの効果を引立たせます。

(107c) はさらに,ことば遊びを組み合わせています。横浜の市外局番が045であるので,これを「オシッコ」と呼び習わして,小用に行くことを伝える隠語的な表現です(もっとも,最近はあまり使われていないかもしれません)。

第72回に取り上げた「キジ撃ちに行く」も,同様に,笑いが隠された婉曲表現です。草むらに腰を下ろして待つ「大キジ」のほうなのか,鉄砲を構えてねらう「小キジ」のほうなのか,いずれにせよ,排泄の行為をキジ撃ちにたとえるユーモラスな意図があるように思います。

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このような表現は,ところかまわず使えるものではありません。テレビのニュース番組で――つまりお堅いイメージが伴うような場面で―― (107) のような表現を使うと,たちまち苦情が出るのではないでしょうか。(107) は仲間同士だから使える表現です。タブーを共に笑いながら乗り越えていく,聞き手との共犯関係にもとづいた婉曲のストラテジーなのです。

まじめな婉曲法はこれと対照的です。それとなく目立たずにやり過ごします。だから,聞き手と親しくなくとも使えます。ニュースキャスターだって使えます。

これまで婉曲表現と言えば,このまじめな婉曲法のことをもっぱら指していました。そして笑いの婉曲法がまじめに取り上げられることは,ほとんどありませんでした。重要なことは,ひとつの問題に対し複数の対処法があるということです。口にするとお互いの気分を害するかもしれない表現がある。だから,そのことばを使わずにことをすませたい。そのときの方法はひとつのみではないのです。

実際,一般にお互いの対面が問題になるとき,聞き手と社会的にどの程度距離があるのか,当該伝達交渉(の結果)がどの程度聞き手の負担になるのか,などによって私たちは対処方法を違えています。婉曲法もその例外ではありません。次回は,まじめと笑いの婉曲法の関係について,そのような観点からさらに考えてみます

筆者プロフィール

山口 治彦 ( やまぐち・はるひこ)

神戸市外国語大学英米学科教授。

専門は英語学および言語学(談話分析・語用論・文体論)。発話の状況がことばの形式や情報提示の方法に与える影響に関心があり,テクスト分析や引用・話法の研究を中心課題としている。

著書に『語りのレトリック』(海鳴社,1998),『明晰な引用,しなやかな引用』(くろしお出版,2009)などがある。

『明晰な引用,しなやかな引用』(くろしお出版)

 

『語りのレトリック』(海鳴社)

編集部から

雑誌・新聞・テレビや映画、ゲームにアニメ・小説……等々、身近なメディアのテクストを題材に、そのテクストがなぜそのような特徴を有するか分析かつ考察。
「ファッション誌だからこういう表現をするんだ」「呪文だからこんなことになっているんだ」と漠然と納得する前に、なぜ「ファッション誌だから」「呪文だから」なのかに迫ってみる。
そこにきっと何かが見えてくる。