デンスモア兄弟は1866年4月10日、石油タンク車の特許(United States Patent No.53794)を取得し、それと前後して、石油タンク車そのものの増産にも着手しました。石油タンク車を増産する過程で、デンスモアは、ヨスト(George Washington Newton Yost)という人物と知り合います。ヨストは、コリーのダウナー・オイル・ワークス社を含む複数の会社と契約を結び、石油精製機械や農業機械の技術開発をおこなっていました。ヨストの助言をもとに、デンスモア兄弟は石油タンク車の改良をおこない、1866年6月26日、さらに3つの特許(United States Patents Nos.55830, 55831, and 55832)を取得しました。
デンスモアはヨストと組んで、新しい会社をコリーに設立する準備を進めました。これに加え、デンスモアは、既に取得した特許をもとに、他の石油輸送業者に対して裁判を起こしました。石油タンク車を使って石油を鉄道輸送するアイデアは、デンスモア兄弟が発明したものだ、と主張したのです。しかし、同業他社も黙ってはいません。中でもクリーブランド・オイル・タンク社は、デンスモアとは全く別の特許(United States Patent No.64123)によって石油タンク車を製造し、石油の鉄道輸送をおこなっていると主張しました。1868年2月7日にクリーブランドで開廷された巡回裁判は、数日間に渡る審理の結果、デンスモアの敗訴を言い渡しました。デンスモアの特許と、クリーブランド・オイル・タンク社の特許とでは、石油タンクの形状も材質も貨車への固定方法も全く異なっており、いずれかの特許がもう一方の特許を侵害しているとは認められない、という判決でした。
これらの裁判の間にも、デンスモアは、石油タンク車の製造と石油輸送を続け、1868年1月29日には、ヨストとともにコリー・マシン社を設立しました。コリー・マシン社では、石油タンク車だけでなく、ヨストの他の発明品の特許管理や製造管理もおこなうことにしました。そんなデンスモアのもとに、ミルウォーキーのショールズから、不思議な手紙が届きました。その手紙は手書きではなく、等幅の大文字の活字だけで打たれている、という風変りなものでした。この手紙を打つための機械を発明したので、ぜひミルウォーキーまで見に来てほしい、というのです。さらには、その機械の開発製造のための資金を投資してほしい、というのです。
(ジェームズ・デンスモア(5)に続く)