『日本国語大辞典』をよむ

第91回 和風変換

筆者:
2022年2月27日

2022年1月23日に、「トーキング ウィズ 松尾堂」というNHKFMの番組で、お笑い芸人のすゑひろがりずさんとご一緒した。すゑひろがりずさんは、「ジューンブライド」を「水無月祝言」と言い換える「和風変換」を芸にしている。番組内でも、「和風変換」した外国映画のタイトルのもとのタイトルをあてるクイズなどをしておもしろかった。

さて、『日本国語大辞典』に次のような項目があった。

あだまろび【徒転・空転】〔名〕何の成果も得られずに物事が進行すること。くうてん。*春迺屋漫筆〔1891〕〈坪内逍遙〉梓神子・四「一は悪なれども転びて休まざれば一念の功積りて上ること易く六は善なれども空転(アダマロビ)かさならば振出しに戻ることあるべし」

「用例」としては坪内逍遙の「春迺屋漫筆」のみがあげられているので、ひろく使われた語かどうかはわからない。語釈の末尾に「くうてん」とあるので、これは「あだまろび」という和語を漢語に変換したことになる。見出し「くうてん」を調べると次のようにある。

くうてん【空転】〔名〕(1)車輪や機関などがむだに回転するだけで、必要な働きをしないこと。からまわり。*海に生くる人々〔1926〕〈葉山嘉樹〉二「速力は今ではもう推進器の空転の危険から、殆んど三哩位に減じられて」*ガトフ・フセグダア〔1928〕〈岩藤雪夫〉四「圧力計(プレシュアゲージ)はぴりぴり戦(をのの)き、船が尻を持たげる毎にプロペラアは空転して、シャフトがキンキン焼けた」*春の城〔1952〕〈阿川弘之〉二・九「機関車の車輪が『シャッシャッシャッシャッ』と音を立てて空転すると、その方で白い蒸気が上った」(2)(比喩的に)何の結果、成果も生じることなく、物事が進行すること。*秋声の描く女〔1946〕〈中野好夫〉「いってみれば自分では一生懸命に駆けつづけているつもりなのだ。それでいて他からみれば一足も出ていない。むなしく空転の徒労をくりかえしているにすぎない」*門を入らない人々〔1951〕〈竹山道雄〉「これは自由とは別の主題であり、自由を論ずるときにこれが入ってきては議論は空転をするばかりだ」*地の群れ〔1963〕〈井上光晴〉六「彼女との空転する会話を打ち切った」

見出し「くうてん(空転)」の語義(2)は「(比喩的に)何の結果、成果も生じることなく、物事が進行すること」と記述されており、一方、見出し「あだまろび【徒転・空転】」の語義は「何の成果も得られずに物事が進行すること」と記述されているので、「あだまろび」の語釈は「「くうてん」(2)に同じ」とでも記述してあったほうがより丁寧であろう。しかしそれはそれとする。

気になるのは、「くうてん(空転)」の語義(1)はまさしく〈車輪がからまわり〉しているということであって、空回りしないことが「常態」であることはいうまでもないが、空回りしない「常態」を「結果」や「成果」と結び付けることはないだろうということだ。飛行機のプロペラが空転しないで回っているということは「常態=当然」であるので、そのことから何か特別な「結果」や「成果」が期待されているわけではない。そこから一歩ふみこんで、一定の「結果」や「成果」を期待し、それが得られるように企図されている行為において、その「結果」や「成果」がうまく得られない場合に、その企図が空回りするのが、比喩的な意味合いでの「クウテン(空転)」ではないかと思う。つまり、そこには「ねらい」があって、それがうまくいかないがっかり感が「クウテン(空転)」ではないかということだ。

『日本国語大辞典』が「あだまろび」の項目にあげている坪内逍遙の使用例は、あげられている文から文意がつかみやすくはない。したがって、何か特別な「結果」や「成果」が期待されている前提で「あだまろび」が使われているかどうか判断しにくい。漢字列として「空転」を使っていることからすれば、漢語「クウテン(空転)」がなにほどかにしても重ね合わされていることはたしかだろう。和語「アダ」が〈むだ〉という語義をもっていることからすると、坪内逍遙が使った「あだまろび」は漢語「クウテン(空転)」と重なり合いをもつ語で、『日本国語大辞典』が説明しているように「何の成果も得られずに物事が進行すること」という語義で使われているとみてよさそうだ。辞書としては、やはり語義に「くうてん」とだけ記すのではなく、見出し「くうてん(空転)」の(2)と同じ、という記しかたをしてもらえるとわかりやすい。

新聞記事を検索してみると、車輪やタイヤが空転する、という使い方は一定数みられるように思われる。しかしまたその一方で、「思考が空転する」「議会が空転する」といった比喩的な使い方も少なからずあり、さらには「放送法の規定が空転する」といった「物事の進行」とはさらに離れた使用もみられる。そのことからすれば、(これもまた筆者の臆測)ということになるだろうが、『日本国語大辞典』の語義(1)での「クウテン(空転)」がなくなることはないだろうが、それは限定的な使用になり、語義(2)での使用、すなわち比喩的な使用が増え、その比喩的な使用は回転ということとは離れて拡大していくだろうと思われる。

漢語を和語によって理解するのは、漢語の基本的な理解のしかたであるが、場合によってはわかりやすい漢語によってわかりにくい和語を理解することもないではない。「和風変換」は案外身近なことといってよい。

筆者プロフィール

今野 真二 ( こんの・しんじ)

1958年、神奈川県生まれ。高知大学助教授を経て、清泉女子大学教授。日本語学専攻。

著書に『仮名表記論攷』、『日本語学講座』全10巻(以上、清文堂出版)、『正書法のない日本語』『百年前の日本語』『日本語の考古学』『北原白秋』(以上、岩波書店)、『図説日本語の歴史』『戦国の日本語』『ことば遊びの歴史』『学校では教えてくれないゆかいな日本語』(以上、河出書房新社)、『文献日本語学』『『言海』と明治の日本語』(以上、港の人)、『辞書をよむ』『リメイクの日本文学史』(以上、平凡社新書)、『辞書からみた日本語の歴史』(ちくまプリマー新書)、『振仮名の歴史』『盗作の言語学』(以上、集英社新書)、『漢和辞典の謎』(光文社新書)、『超明解!国語辞典』(文春新書)、『常識では読めない漢字』(すばる舎)、『「言海」をよむ』(角川選書)、『かなづかいの歴史』(中公新書)がある。

編集部から

現在刊行されている国語辞書の中で、唯一の多巻本大型辞書である『日本国語大辞典 第二版』全13巻(小学館 2000年~2002年刊)は、日本語にかかわる人々のなかで揺らぐことのない信頼感を得、「よりどころ」となっています。
辞書の歴史をはじめ、日本語の歴史に対し、精力的に著作を発表されている今野真二先生が、この大部の辞書を、最初から最後まで全巻読み通す試みを始めました。
本連載は、この希有な試みの中で、出会ったことばや、辞書に関する話題などを書き進めてゆくものです。ぜひ、今野先生と一緒に、この大部の国語辞書の世界をお楽しみいただければ幸いです。