2022年1月23日に、「トーキング ウィズ 松尾堂」というNHKFMの番組で、お笑い芸人のすゑひろがりずさんとご一緒した。すゑひろがりずさんは、「ジューンブライド」を「水無月祝言」と言い換える「和風変換」を芸にしている。番組内でも、「和風変換」した外国映画のタイトルのもとのタイトルをあてるクイズなどをしておもしろかった。
さて、『日本国語大辞典』に次のような項目があった。
あだまろび【徒転・空転】〔名〕何の成果も得られずに物事が進行すること。くうてん。*春迺屋漫筆〔1891〕〈坪内逍遙〉梓神子・四「一は悪なれども転びて休まざれば一念の功積りて上ること易く六は善なれども空転(アダマロビ)かさならば振出しに戻ることあるべし」
「用例」としては坪内逍遙の「春迺屋漫筆」のみがあげられているので、ひろく使われた語かどうかはわからない。語釈の末尾に「くうてん」とあるので、これは「あだまろび」という和語を漢語に変換したことになる。見出し「くうてん」を調べると次のようにある。
くうてん【空転】〔名〕(1)車輪や機関などがむだに回転するだけで、必要な働きをしないこと。からまわり。*海に生くる人々〔1926〕〈葉山嘉樹〉二「速力は今ではもう推進器の空転の危険から、殆んど三哩位に減じられて」*ガトフ・フセグダア〔1928〕〈岩藤雪夫〉四「圧力計(プレシュアゲージ)はぴりぴり戦(をのの)き、船が尻を持たげる毎にプロペラアは空転して、シャフトがキンキン焼けた」*春の城〔1952〕〈阿川弘之〉二・九「機関車の車輪が『シャッシャッシャッシャッ』と音を立てて空転すると、その方で白い蒸気が上った」(2)(比喩的に)何の結果、成果も生じることなく、物事が進行すること。*秋声の描く女〔1946〕〈中野好夫〉「いってみれば自分では一生懸命に駆けつづけているつもりなのだ。それでいて他からみれば一足も出ていない。むなしく空転の徒労をくりかえしているにすぎない」*門を入らない人々〔1951〕〈竹山道雄〉「これは自由とは別の主題であり、自由を論ずるときにこれが入ってきては議論は空転をするばかりだ」*地の群れ〔1963〕〈井上光晴〉六「彼女との空転する会話を打ち切った」
見出し「くうてん(空転)」の語義(2)は「(比喩的に)何の結果、成果も生じることなく、物事が進行すること」と記述されており、一方、見出し「あだまろび【徒転・空転】」の語義は「何の成果も得られずに物事が進行すること」と記述されているので、「あだまろび」の語釈は「「くうてん」(2)に同じ」とでも記述してあったほうがより丁寧であろう。しかしそれはそれとする。
気になるのは、「くうてん(空転)」の語義(1)はまさしく〈車輪がからまわり〉しているということであって、空回りしないことが「常態」であることはいうまでもないが、空回りしない「常態」を「結果」や「成果」と結び付けることはないだろうということだ。飛行機のプロペラが空転しないで回っているということは「常態=当然」であるので、そのことから何か特別な「結果」や「成果」が期待されているわけではない。そこから一歩ふみこんで、一定の「結果」や「成果」を期待し、それが得られるように企図されている行為において、その「結果」や「成果」がうまく得られない場合に、その企図が空回りするのが、比喩的な意味合いでの「クウテン(空転)」ではないかと思う。つまり、そこには「ねらい」があって、それがうまくいかないがっかり感が「クウテン(空転)」ではないかということだ。
『日本国語大辞典』が「あだまろび」の項目にあげている坪内逍遙の使用例は、あげられている文から文意がつかみやすくはない。したがって、何か特別な「結果」や「成果」が期待されている前提で「あだまろび」が使われているかどうか判断しにくい。漢字列として「空転」を使っていることからすれば、漢語「クウテン(空転)」がなにほどかにしても重ね合わされていることはたしかだろう。和語「アダ」が〈むだ〉という語義をもっていることからすると、坪内逍遙が使った「あだまろび」は漢語「クウテン(空転)」と重なり合いをもつ語で、『日本国語大辞典』が説明しているように「何の成果も得られずに物事が進行すること」という語義で使われているとみてよさそうだ。辞書としては、やはり語義に「くうてん」とだけ記すのではなく、見出し「くうてん(空転)」の(2)と同じ、という記しかたをしてもらえるとわかりやすい。
新聞記事を検索してみると、車輪やタイヤが空転する、という使い方は一定数みられるように思われる。しかしまたその一方で、「思考が空転する」「議会が空転する」といった比喩的な使い方も少なからずあり、さらには「放送法の規定が空転する」といった「物事の進行」とはさらに離れた使用もみられる。そのことからすれば、(これもまた筆者の臆測)ということになるだろうが、『日本国語大辞典』の語義(1)での「クウテン(空転)」がなくなることはないだろうが、それは限定的な使用になり、語義(2)での使用、すなわち比喩的な使用が増え、その比喩的な使用は回転ということとは離れて拡大していくだろうと思われる。
漢語を和語によって理解するのは、漢語の基本的な理解のしかたであるが、場合によってはわかりやすい漢語によってわかりにくい和語を理解することもないではない。「和風変換」は案外身近なことといってよい。