『日本国語大辞典』をよむ

第90回 湧き出した語

筆者:
2022年1月23日

『日本国語大辞典』の見出し「あぎれ」は次のように記されている。

あぎれ【足切】〔名〕足の指の切り傷。いぎれ。*俚言集覧〔1797頃〕「あぎれ 足の指にきれたる疵のできたるを云又いきれとも云足切の義なるべし」 方言(1)寒さのため皮膚に生じる亀裂。ひび、あかぎれの類。 《あぎれ》青森県 069 072 076 山形県 139 《あぎり》岩手県気仙郡 100 山形県 139 《あいぎれ》青県上北郡 074(2)足の指の屈伸部分の裂傷。《あぎれ》茨城県 062 群馬県勢多郡 236 埼玉県北足立郡 062 東京都八王子 311 神奈川県津久井郡 317 新潟県 361 371 《あぎり》新潟県中頸城郡 383(3)足の裏が鋭く切れること。 《あぎれ》長野県佐久 493

使用例としては『俚言集覧』の記事のみが示されている。『俚言集覧』は、備後(現在の広島県)福山藩士であった太田全斎(1759~1829)が中心となって編まれた辞書で、写本で伝わっていた。見出しの第2音節までを五十音横 列順(アカサタナ……というように並べる)している。1899(明治32)年に井上頼圀と近藤瓶城とによって、改編増補され、見出しを五十音順に配列して活字印刷された『増補俚言集覧』が出版された。この『増補俚言集覧』が「俚言集覧」として使われることが多い。『日本国語大辞典』が使っているのも、この『増補俚言集覧』だ。増補は井上頼圀と近藤瓶城によって行なわれているので、増補された語彙は「増補俚言集覧」の語彙とみるべきであるが、『日本国語大辞典』は「俚言集覧(増補)」と表示して、区別している。

「あぎれ」は『俚言集覧』に見出しとして採用されている。現代日本語で「現状を打破しようとあがく」のように使う「アガク」は漢字をあてるなら ば「足搔く」で、もともとの語義は「馬、牛などが地面を掻くように足を動かす」(『日本国語大辞典』)だ。つまり「アガク」とは〈足で搔く〉ということで、「ア」は〈足〉だ。8世紀には成っていたと考えられている『万葉集』においても動詞「アガク」、名詞「アガキ」は使われている。そのように、〈足〉という語義の「ア」は上代(7~8世紀)の日本語においても使われているが、独立したかたちでは使用されていない。独立したかたちでは「アシ(足)」が使われている。このことからすると、まずは〈足〉という語義の1音節語「ア」があって、同音異義語が多くなることを避けるために、「アシ」という語形に移行したと推測することができる。そして、「ア」は複合語の中に残った。

さて、「アギレ」という語がいつ頃できたかはわからないけれども、とにかくすごく新しい語ではなさそうだ。『俚言集覧』の「俚言」を厳密に定義し、規定するのは難しいが、「俗間に用いられることば。また、ある地域の方言の語彙。俗言。俚語」(『日本国語大辞典』見出し「りげん(俚言)」)ぐらいにとらえておくとすると、とにかく非標準的な語といえるだろう。非標準的には「中央では使われない=方言」や「中央語の書きことばでは使われない=口語的」などいろいろな「非標準」がありそうだが、とにかく標準的ではないということになる。

標準的ではないから、基本的に「書きことば」では使われにくい。「書きことば」で使われないということは、文献によっては使用例が見つけられない、ということになる。「はなしことば」ではずっと使われているが、「書きことば」では使われないとなると、「記録」に残らない。

そこで『俚言集覧』のように、「非標準語」を集めた辞書が貴重な文献になる。「非標準語」をわざわざ集めるのだから、そこに「非標準語」が集積される。そして「アギレ」が見出しとなる。『日本国語大辞典』の見出し「あぎれ」には現代方言での使用が記されている。関東北部から東北にかけての地域で、使用されているようにみえる。

『日本国語大辞典』は「アギレ」の使用例として、『俚言集覧』のみを示している。だから、「アギレ」が『俚言集覧』で突如登場したようにみえなくもない。それは、伏流水が突然地上にあらわれた湧水のようで、タイトルはそうしたことを「イメージ」してつけた。

語には消長がある。8世紀頃から現代までずっと使われている語もあれば、どこかで使われなくなる語もある。そうかと思うと、室町時代頃から使われ始めたようにみえる語もある。現在うまれる語ももちろんあるし、そろそろ使われなくなってきたな、という語もある。

ほんとうは突然湧き出したのではなく、文献に足跡を残していなかったというだけであるが、過去の言語を観察するためには、まずは文献を探るしかない。だから『俚言集覧』という辞書が「俚言」を集めたことは意義が深い。江戸時代には積極的に(江戸時代における)方言を集めた『物類称呼』という書物が俳諧師の越谷吾山によって編纂され、1775(安永4)年に出版されている。4000あまりの方言が収められている。ジャパンナレッジのオンライン版を使って『俚言集覧』があげられている見出しを検索すると、『俚言集覧』とともに『物類称呼』があげられている見出しがあることもわかる。辞書にはいろいろな楽しみ方がある。

筆者プロフィール

今野 真二 ( こんの・しんじ)

1958年、神奈川県生まれ。高知大学助教授を経て、清泉女子大学教授。日本語学専攻。

著書に『仮名表記論攷』、『日本語学講座』全10巻(以上、清文堂出版)、『正書法のない日本語』『百年前の日本語』『日本語の考古学』『北原白秋』(以上、岩波書店)、『図説日本語の歴史』『戦国の日本語』『ことば遊びの歴史』『学校では教えてくれないゆかいな日本語』(以上、河出書房新社)、『文献日本語学』『『言海』と明治の日本語』(以上、港の人)、『辞書をよむ』『リメイクの日本文学史』(以上、平凡社新書)、『辞書からみた日本語の歴史』(ちくまプリマー新書)、『振仮名の歴史』『盗作の言語学』(以上、集英社新書)、『漢和辞典の謎』(光文社新書)、『超明解!国語辞典』(文春新書)、『常識では読めない漢字』(すばる舎)、『「言海」をよむ』(角川選書)、『かなづかいの歴史』(中公新書)がある。

編集部から

現在刊行されている国語辞書の中で、唯一の多巻本大型辞書である『日本国語大辞典 第二版』全13巻(小学館 2000年~2002年刊)は、日本語にかかわる人々のなかで揺らぐことのない信頼感を得、「よりどころ」となっています。
辞書の歴史をはじめ、日本語の歴史に対し、精力的に著作を発表されている今野真二先生が、この大部の辞書を、最初から最後まで全巻読み通す試みを始めました。
本連載は、この希有な試みの中で、出会ったことばや、辞書に関する話題などを書き進めてゆくものです。ぜひ、今野先生と一緒に、この大部の国語辞書の世界をお楽しみいただければ幸いです。