1874年4月30日、デンスモアのもとに「Sholes & Glidden Type-Writer」の最初の1台が、E・レミントン&サンズ社から届きました。同じ頃、ショールズやステイガーのもとにも、「Sholes & Glidden Type-Writer」が届いていました。E・レミントン&サンズ社は、やっとタイプライターの生産を開始したのです。それにしても、このタイプライターの外見は、まるで足踏み式のミシンでした。
生産こそ始まったものの、デンスモアは、タイプライターの新たな売り込み先を、見つけきれていませんでした。大文字しか打つことのできない「Sholes & Glidden Type-Writer」は、ビジネスレターにすら使うことができません。大文字だけしか必要としない分野なんて、モールス符号の受信ぐらいしかないのですが、しかし、ウェスタン・ユニオン・テレグラフ社でのタイプライター導入も、あまり順調とは言えない状態でした。いくらポーターが実演してみせても、それまでの手書きに慣れた電信士たちは、タイプライターによるモールス受信になかなか移行しなかったのです。「Sholes & Glidden Type-Writer」の新たな売り上げには、つながらなかったのです。
ローデブッシュは、ハノーバー通りにあったタイプライターのショールームを閉じて、すぐ近くのパール通りで、金塊ビジネスに手を染めていました。デンスモアとしては、ニューヨークに新たなショールームを立ち上げたかったのですが、ショールームを開設する費用も、そこに飾るタイプライターを生産してもらう費用も、もはや手元になかったのです。それどころか、タイプライターの特許権管理にかかる費用すら、事欠く有様でした。
そんなデンスモアに、ヨストが、ある提案をおこないました。タイプライターの特許権管理を、株式会社化しようというのです。デンスモアが保有しているタイプライターの特許権を、新たに設立する株式会社に移譲し、その会社の株を売ることで、タイプライターのショールームや、そこに飾るタイプライター、さらには今後販売するタイプライターの製造費用の前金に当てるのです。何ならヨスト自身も、株主の一人として、新たな株式会社に投資しよう、と。確かにそれは、費用負担にあえぐデンスモアにとっても、渡りに舟でした。ただし、その舟の船頭はヨストです。ヨストが、タイプライター特許を自由に使って、新たなビジネスを起業したい、と考えているのは、デンスモアから見ても明らかでした。
(ジェームズ・デンスモア(19)に続く)