1874年12月28日、デンスモアはタイプ・ライター社(The Type Writer Company)を設立しました。ただし、書類上の設立者は、デンスモアの弟エイモスとエメットで、デンスモアとヨストは、出資者すなわちタイプ・ライター社の株主でした。デンスモアは、タイプ・ライター社の売り上げやキャピタルゲインの一部を、弟たちにも配分できるようにしたのです。タイプ・ライター社は、タイプライターの特許権管理をおこなうための会社で、デンスモアは、これまでデンスモア個人が管理してきたタイプライター関連特許を、全てタイプ・ライター社に移譲しました。
ヨストはさらに、タイプライターのショールームをマンハッタンのブロードウェイに開設し、そこでタイプライターの販売もおこなうという計画を、デンスモアに提案しました。ブロードウェイのショールームというのは、確かに魅力的な計画ですが、かなりの費用もかかります。タイプ・ライター社のキャピタルゲインだけでは、まかなえそうにありません。別の出資者が必要です。
ヨストは、文筆講演家のロック(David Ross Locke,別名Petroleum Vesuvius Nasby)と、広告代理業のベイツ(James Hale Bates)を共同出資者として招き入れ、ロック・ヨスト&ベイツ社を設立しました。デンスモアは、マンハッタンの西56丁目にアパートを借りて、タイプ・ライター社とロック・ヨスト&ベイツ社の実務を取り仕切りました。これに加え、ブロードウェイ707番地の一角に、タイプライターのショールームを開設しました。
1875年11月1日、デンスモアとヨストとレミントンは、新たな契約を結びました。それまでの契約上、デンスモア個人が独占していたタイプライターの特許権や販売権は、特許権についてはタイプ・ライター社に、販売権についてはロック・ヨスト&ベイツ社に、それぞれ正式に移されることになりました。これを受けてロック・ヨスト&ベイツ社は、いくつかの雑誌に「Sholes & Glidden Type-Writer」の一面広告を打ちました。ロック・ヨスト&ベイツ社にとってラッキーなことに、レミントンが生産するタイプライターには、どこにも「Sholes & Glidden Type-Writer」のブランド名が記されていなかったのです。デンスモアとヨストたちは、ショールズやグリデンに憚ることなく、このタイプライターを「The Type-Writer」として宣伝していきました。
(ジェームズ・デンスモア(20)に続く)