いろいろあった1年でしたが、また春が巡ってきましたね。新学期になると、なんだかワクワクして新しいことを始めたい気分になります。中世の研究をしているらしいあの先生のおすすめは……。
学生:新学期になったし、今年もフランス語をがんばって勉強しますよ!
先生:おぉ、やる気に満ちあふれているじゃない。その調子でフランス語を勉強して、しっかり身につけていってほしいな。
学生:はい、もちろんです! ……とは言いつつ、せっかく新学期になったので、何か新しい別の言語の勉強を始めてみたい気分でもあるんですよね。新入生なんて、まさに初修外国語の履修選択の真っ最中ですし、これから新しいことを学ぶってワクワクしますから。
先生:確かに、4月は年度が変わる時期だから、何か新しいことに挑戦するには良いタイミングかもしれないよね。それなら、いっそのこと「古フランス語」を丁寧に学んでみるのはどうかな。
学生:古フランス語ですか? 今でもフランス語を勉強しているわけなので、古い時代の言語とはいえ、あまり心機一転といった感じにはならない気がするのですが……
先生:確かに「フランス語」という点では、今の君が学んでいる現代フランス語にも通じるところが多いんだけど、「古フランス語」と「現代フランス語」は全く別の言語と考えた方がいいよ。たとえば、今の私たちが使っている日本語の知識だけで、鎌倉時代に書かれた日本語の文書が難なく読めるかといえば、決してそうではないよね。同じ「日本語」であっても、通時的に見れば異なる部分がいくつもあるし、各時代の「日本語」を理解するには各時代の語彙や文法の知識が必要となってくるんだ。それは「フランス語」であっても同じなんだよ。それに、古フランス語を学ぶと現代フランス語の輪郭がよりはっきりと見えてくるし、心機一転できる上に、広い意味での「フランス語」の学びにも繋がるから、一石二鳥だと思うんだけどな。
学生:説明を聞いていると、だんだん古フランス語に興味が湧いてきました。ちなみに古フランス語には、現代フランス語と比べて、具体的にどんな違いがあるのでしょうか?
先生:異なる部分はいろいろあって一言で説明するのは難しいんだけど、特徴的な違いとしては、名詞や冠詞、形容詞に「格変化」があることだね。以前、一緒に学食に行った時に少し説明したけど、古フランス語では、たとえ同じ語であっても、主語や呼びかけを示すのに使う「主格」Cas sujet と、動詞や前置詞などの補語を示すのに使う「被制格」Cas régime では、綴りの形が異なっていたんだよ[注1]。また、単数と複数でもそれぞれ違う形をしていたんだ。次の例を見てごらん。
単数形 | 複数形 | |
---|---|---|
主格 (Cas sujet) | li murs | li mur |
被制格 (Cas régime) | le mur | les murs |
単数形 | 複数形 | |
---|---|---|
主格 (Cas sujet) | la fille | les filles |
被制格 (Cas régime) | la fille | les filles |
先生:こんな風に、性、数、格によって語尾を変化させることを「曲用」déclinaison というよ。さて、男性名詞と女性名詞の代表的な曲用の例を挙げてみたけど、一見して何か気づくことはない?
学生:女性名詞の方は、現代フランス語と形が同じですね。ただ、男性名詞の方には、現代フランス語で見かけない冠詞 li が入っているのと……、主格では単数形に、被制格では複数形に « s » がついていますね。
先生:うん、そこに注目してほしかったんだ。女性名詞は現代フランス語と同じ形なのに、男性名詞は単数形にも « s » がついている[注2]。現代フランス語の場合、原則的に « s » がつくのは複数形の時だよね。もちろん « s » 以外の文字がつく例もあるけど[注3]、多くの名詞では « s » という記号が複数形を示す役割を果たしている。ただ、古フランス語の場合は、« s » が複数形だけでなく、単数形を示す記号としても機能しているんだよ。
学生:単数と複数の両方に « s » がつくということですか……。英語を学び始めたときから、常々 « s » は「複数形を示す記号」として認識してきましたので、「単数形を示す記号」として使われているのには、とても違和感があります。そういえば、ふと疑問に思ったのですが、なぜ様々な文字の中から « s » が単複の違いを示す記号として選ばれたのでしょう? 他の文字ではいけなかったのですか?
先生:「« s » が単複の違いを示す記号として選ばれた」という言い方には、ちょっと語弊があると思う。特定の時代に、誰かが決めたルールじゃないからね。考えられる理由として、« s » が単複の違いを示す記号として使用されるようになったのは、いくつかある古フランス語の曲用パターンの中で、語尾が « s » で終わっている古典ラテン語の第2変化名詞「-us型」に由来する格変化の形が最も広く普及するようになり[注3]、それが後世に残ったから……というものが挙げられるかな。その流れを紐解くために、古フランス語の mur の語源である古典ラテン語の単語 murus の変化表を見てもらうことにしよう。
単数形 | 複数形 | |
---|---|---|
主格(壁は) | mūrus | mūrī |
呼格(壁よ) | mūre | mūrī |
属格(壁の) | mūrī | mūrōrum |
与格(壁に) | mūrō | mūrīs |
対格(壁を) | mūrum | mūrōs |
奪格(壁から) | mūrō | mūrīs |
学生:主格単数が « -us » で終わっていますね。
先生:そうそう。この6種類の格のうち、俗ラテン語から古フランス語にかけて、主格/呼格の機能が「主格」に、属格/与格/対格/奪格の機能が「被制格」に集約されていくんだけど[注5]、語の形としては主格が「主格」に、対格が「被制格」に変化していくんだよ。その流れとして、俗ラテン語では、次のような形だったと考えられているね[注6]。
単数形 | 複数形 | |
---|---|---|
主格(壁は) | *murus | *muri |
対格(壁を) | *muru | *muros |
古典ラテン語から俗ラテン語にかけての語尾の変化は、主格単数が « -us » → « -us »、主格複数が « -ī » → « -i »、対格単数が « -um » → « -u »、対格複数が « -ōs » → « -os » だったとされている。対格の語末子音 « -m » は古典ラテン語の時代にすでに発音されなくなっていたみたいだね。その後、古フランス語ではアクセントのない最後の音節における [a] 以外の母音はほとんど消失してしまったので、主格複数の « -i » と対格単数の « -u » が消失して、古フランス語の主格複数と対格単数はどちらも mur になった。主格単数と対格複数では、語末の « -s » が維持されて、どちらも murs になったんだ。
学生:なるほど、それぞれの語尾にある « s » の理由がよくわかりました。でも、現代フランス語だと、単数形に « s » はついていませんよね? どうして現代では、複数形にだけ « s » がついているのでしょう?
先生:良い質問だね。そこが今回の話のポイントで、実は現代フランス語に残っている曲用の形は、主格ではなく、被制格の方なのさ。さっき見せた古フランス語の曲用の表から、主格の部分を削除してみるとわかりやすいと思うよ。
単数形 | 複数形 | |
---|---|---|
被制格 (Cas régime) | le mur | les murs |
単数形 | 複数形 | |
---|---|---|
被制格 (Cas régime) | la fille | les filles |
学生:現代フランス語と全く同じ形になりますね。
先生:そうなんだよ。被制格よりは、主語や呼びかけを示すのに使う主格の方が目立つし、後世に残っていきそうな感じがするよね。でも、結果として残ったのは、被制格の方だった。これには理由があって、「主格よりも被制格の方が、使用頻度が高かった」からなんだよ[注7]。
学生:具体的にどういうことなのでしょうか?
先生:うん、順番に説明していこう。まず、13世紀頃から語末子音が発音されなくなったことで、語尾の « s » の有無にかかわらず、主格も被制格も、単数も複数も、全て同じように発音されるようになっていくんだ。さっきの mur に関しても、もともと読まれていた « s » が読まれなくなって、主格と被制格の区別が曖昧になっていくんだよ。
学生:そうか、綴りは違っても、音声では全て [myr] みたいに発音するわけですもんね。そうなると、現代フランス語と同じく、それぞれの語の格や単複の区別には、冠詞の有無と形が重要になってきますね。
先生:理解が早くて助かるよ。さらに、古フランス語の文では、主語を省略することは特に珍しくなかったから、主格よりも被制格の使用頻度が相対的に高くなり、14世紀になる頃には主格が消失して、被制格のみが残る結果となったんだ。
学生:へぇー! じゃあ、現代の私たちが使っているフランス語の名詞は、古フランス語の被制格の形に由来するのですね!
先生:まぁ、大方そうだと言って差し支えないかな。ただ、人名や親族を表す名詞は、古フランス語でも「主語」や「呼びかけ」に用いられる機会が多かったから、主格単数の形が残っていたりするよ。たとえば、 Charles や Georges など語尾に « s » がついている男性名があるけど、これは人名が主語や呼びかけで使われることが多かったから、主格の形が残ったと考えられるんだ。
学生:名前に関しては、Jacques とかもそうですよね。どうして単数形なのに « s » がついているのかわからなかったのですが、これで謎が解けました!
先生:この点について興味深いのが、男装の女性作家として知られる作家ジョルジュ・サンド George Sand (1804-1876) だね。ジョルジュ・サンドは筆名なんだけど、Georgeには語尾に « s » がついていない。ペンネームとして男性名の「ジョルジュ」を選びながら、語尾に男性名詞・主格単数の形の名残である « s » をつけないことで、「男性名を名乗っているけれど、男性ではない」ということを示しているわけだね。
学生: « s » が1つあるかないかで、解釈が異なってくるんですね。面白いです。
先生:あと、普通名詞の fils(息子)なんかもそうだよ。単数形の状態でも « s » がついているのは主格の « s » の名残で、「息子よ!」といった呼びかけの形で使われたことが多かったのかもしれない。
単数形 | 複数形 | |
---|---|---|
主格 (Cas sujet) | li filz (< filius) | li fil (< filiī) |
被制格 (Cas régime) | le fil (< filium) | les filz (< filiōs) |
学生:fil(糸)との混同を避けるための « s » かと思っていたのですが、fils には元々 « s » がついていたのですね。ちなみに、古フランス語の fils の形ですが、表を見ると « s » の代わりに « z » が使われていますね。これは一体どういうことなのですか? もしかして古フランス語では、« s » だけでなく « z » も複数形を示す記号として使われていたのでしょうか?
先生:この « z » に関しては、君が古フランス語の勉強を続ける気があるなら説明するけど、どうする?
学生:えっと、ちょっとまだ心の準備が……。しばらく考えてみて、もし勉強できそうだったら、します(苦笑)
先生:あはは、君がその気になるのを、楽しみに待ってるよ(笑)
[注]