ne... pas, ne... rien, ne... personne など、フランス語の否定文は否定辞 ne とさまざまな語の組み合わせで表します。これらはどのような道筋をたどって現在の否定表現になったのでしょうか? 第6回、第19回で先生にフランス語の否定文について質問しにきた学生さんが、また先生のところにやってきましたよ。
学生:以前、否定の表現について教えていただいたとき、現代フランス語で標準の否定表現の ne... pas は、「一歩も...ない」という強調の表現だったことを習いました[注1]。これまで授業で習った否定表現には、この他に、ne... jamais「決して...ない」、ne... plus「もう...ない」、ne... rien「何も...ない」、ne... personne「誰も...ない」、ne... aucun 〜「どんな〜も...ない」、ne... que 〜「〜しか...ない」がありますが、これらは何に由来するんですか?
先生:もともと古フランス語では、ラテン語の non に由来する ne や nen だけで否定を表していたのが、それだけでは弱いように感じられるようになって、ごく小さな数量や分量を表す語を一緒に用いるようになったと教えたよね。古フランス語では、pas の他に、mie「パンくずひとかけら」や、point「点」という語もよく用いられたということも。point は現代フランス語でも、文章語やかしこまった表現では使われている。
学生:はい、そうでした。point や mie という語は知りませんでしたが、意味を聞けば、そうか、と納得ができます。
先生:そういう意味で、さっき言った中で、由来が想像できるものはあるかい?
学生:はい。personne は「人」ですから、「人っ子一人いない」という意味で用いられていると思います。
先生:「仮面」という意味のギリシア語に由来するラテン語の persona は、「芝居における役柄」という意味に転じて、そこから、「人間の類型」、「社会的な立場」という意味が生まれた。さらに、後期ラテン語では、後者の意味から「威厳」という意味も生まれた。これが、フランス語に入って、12世紀の後半に「個人の容姿や人柄・人格」、さらには、「個人、ひと」という意味で使われるようになったんだよ[注2]。
学生:へえ、ギリシア語の「仮面」が、古フランス語で「人」という意味になるまで、ずいぶんと長い歴史があるんですね。
先生:この語が、疑問文の中で、「誰か」という意味の不定代名詞として使われるようになったのが13世紀前半、ne と結びついて「誰も...ない」という意味で使われる例がでてきたのは13世紀後半のことだ[注3]。
学生:9世紀には、フランス語がラテン語から独立した言語になっていたということを考えれば[注4]、それから400年もたっているのですね。じゃあ、それまでは「誰も...ない」というときはどう言っていたんですか?
先生:もっとも一般的には、形容詞の nul が、代名詞としても用いられていた。これは、ラテン語の「ない」という意味の形容詞 nullus, -a, -um に由来する。
学生:nul って、どこかで聞いたことがあります。そういえば、フランスから来た留学生が、なにかのことで繰り返し口にしていたような。たしか、C'est nul ! って。
先生:それ、「ダメだこりゃ!」っていう意味だよ。まさか、僕のことじゃないだろうね(笑)? 君の指摘の通り、nul は、あまりいい意味ではないけれど、「無価値の、無能な」という意味で現代フランス語に残っているよ。三省堂の『クラウン仏和辞典 第7版』には、« Cet élève est nul en anglais. »「この生徒は英語が全然できない」という表現がのっているね。この語が、古フランス語では、ne と結びついて、
nus ne le puet conforter[注5]
誰も彼を励ますことができなかった。
というように、「誰も...ない」という意味の代名詞としても使われた。nus は、nul の男性・主格の形だよ。現代フランス語で、jeune「若い」が名詞化して les jeunes「若者」になるように、「ない」という形容詞が代名詞として用いられると、「誰も...ない」という意味になるというわけさ。
学生:nus が「誰も...ない」ということなら、英語の nobody と同じですから、ne は不要のような気がしますが。
先生:古フランス語の形容詞 nul は、肯定文でも用いられたんだよ。次の文例は、12世紀末に書かれたとされる『狐物語』の「旅芸人になったルナール」の一節で、狼のイザングランが、彼の宿敵で、旅芸人に変装をしている狐のルナールに話しかける台詞だ。
Et savez vos nul bon mestier ?[注6]
それで、何か、手に職をつけていることはあるのかい?
この文のように、ne が伴わない場合、nul は「なんらかの」、「なにがしかの」ということを意味した。現代フランス語なら、quelque や quelconque が使われるところだね。
学生:なるほど、古フランス語の形容詞 nul は、否定文のときは「どんな〜も...ない」、肯定文で使われる時は「なんらかの」、「なにがしかの」という意味だったということですね。それが代名詞として用いられると、否定文では、「誰も...ない」、肯定文では「誰か」になる、という理解であってますか?
先生:その通り。16、17世紀になると、nul は、否定文に特化して使われるようになったけれども、その後廃れていった。その代わりに使用例が多くなっていくのが、ne... aucun の aucun だ。この語は、俗ラテン語の *al(i)cunus, -a, -um「ある人」という不定代名詞(<古羅 aliquis unus)に由来していると考えられている。aucun には、nul と違って、もともと否定のニュアンスはなく、「ある人」という不定代名詞、もしくは、「ある〜」という不定形容詞だった。ところが、11世紀になると ne を伴って、「誰も...ない」、「どんな〜も...ない」という意味で用いられるようになる。
学生:もともと否定のニュアンスだったのが、肯定の意味を獲得した nul とは反対の歴史をたどるのですね。
先生:その通り。15世紀までは、肯定の意味が普通にあったし、それ以降にも残った。17世紀には、複数形で、「ある人々」という意味の代名詞として使われていた。モリエールやラ・フォンテーヌの作品には、Aucuns disent que...「...という人たちがいる」という言い回しがでてくるよ[注7]。現代フランス語では、不定代名詞の certains が使われるところだね。『クラウン仏和辞典』の aucun の項目にも、文語であるという断りつきで、「ある人々」という項目が設けられているから、確認してごらん。
学生:(辞書を開けて)本当だ。
先生:モリエールやラ・フォンテーヌの作品は、今もフランスの中学や高校の国語の教科書で必ずとりあげられて古典になっているから、この言い回しも辞書にとりあげられているということだ。現代フランス語では、滅多に見ることがない。一方、単数の aucun は、特に否定の文において、徐々に nul に代わって用いられるようになり、17世紀にはこちらの方が一般的になって、今に至るまでずっと使われている[注8]。
学生:aucun の由来がわかりました。その他の否定の表現については、どうですか?
先生:初級文法で出てくる否定辞の中では、rien が、aucun と同じような経緯をたどっている。この語は、ラテン語で「もの」、「こと」を意味する res(対格は rem)に由来するのだけれど、これが ne と結びついて、「何も...ない」ということを意味するようになった。
学生:rien は英語でいえば、nothing と同じだと理解していましたが、no- は ne に対応していて、 thing が rien に対応していると考えればぴったりですね。
先生:理解が早くてすばらしいね。
学生:これも、aucun と同様に、古フランス語で徐々に ne と結びついて、「何も...ない」という意味になったということですか?
先生:「何も...ない」と読める用例は、最古の文学テクスト群の中にも出てくる。10世紀後半に書かれたとされる『クレルモン写本のキリスト受難』の中にも « ren non forfist »「何も過ちは犯さなかった」という文例がある[注9]。
学生:rien は、最初から、否定の不定代名詞としてのみ用いられていたということですか?
先生:いや、否定で冠詞がつかないのは、古フランス語では当たり前だから[注10]、現代フランス語の ne... rien と同じように読める用例があるという以上のことではない。古フランス語の rien は、定冠詞や不定冠詞と結びつくと、ラテン語と同様に「もの」や「存在」という一般名詞としても用いられた。12世紀末に書かれたクレティアン・ド・トロワの『ペルスヴァル』には、こういう例がある。
Quand la rien que je plus amoie
voi morte, vie que me valt ?[注11]私が最も愛していた存在が死んでしまったのを見たからには、生きていることに何の意味があるだろう?
この例では、定冠詞と結びつけられて、「存在」という一般名詞として用いられているね。rien は、疑問文や否定文の中で、「なにがしかのもの」という意味で用いられることが多かったのだけれど、その場合にも、最初から不定代名詞扱いだったわけではない。たとえば、さきほど話題に出した nul と結びつくと、ne... nule rien というように、形容詞は女性形になった。これは、rien が、ラテン語の res と同様に女性名詞だったことによるのだけれど、男性名詞や女性名詞として扱われているうちは、不定代名詞とは言えない。
学生:なるほど。正しく理解できているか確認するために、別の例で質問しますが、現代フランス語の不定代名詞 on「人、人々」は、文法的に男性でも女性でもなくて、男性のことも女性のことも表すことができるから、不定代名詞と言える、ということですか?
先生:そういうこと。男性でも女性でもなくて、中性であるということだ。12世紀後半になると、rien につく形容詞が女性形になっていない例がでてくる。さっきあげた『ペルスヴァル』には、次のような文例がある。
Costume estoit an cel termine,
[...]
que ja rien n'i eüst osté
ne nule rien n'i eüst mise.[注12]この時代には、以下ようなならわしがあった。
〔中略〕
何も奪うことはないし、
何も後から与えられることがなかった。
省略している部分には、騎士が戦いの中で捕えられて、捕虜となった場合は、捕えられたときに身に着けていたものだけを身に着けたまま牢に入れられるということが書かれているよ。最後の行の mise は metre の過去分詞だけれど、女性・単数形になっているのは、直接目的補語である rien の性・数と一致してのことだ。rien の前に置かれた nule も女性・単数形だね。対して、最後から2行目の最後の osté は、現代フランス語風に綴るなら、ôté になるところだけれど、男性・単数形になっている。つまり、rien は中性として、すなわち、不定代名詞として扱われているということになる。この用法が、現代フランス語の ne... rien の起源というわけだ。
学生:なるほど。では、きっと、最初に話題にしていた ne... personne もこれと同様ですね。
先生:そうとも言えるけれど、さっきも言ったように、「誰も...ない」の意味で用いられている例がでてくるのは13世紀の後半だから、時代はかなりずれる。この語が、14世紀の後半以降、人をあらわす nul や、古フランス語で用いられていた ame「魂」、「人」に代わって用いられるようになるのだけれど、中性扱いになるのは、17世紀のことだった。とはいえ、文法家のヴォージュラは、付加形容詞をつける際には、« Je ne vois personne si heureuse que vous. »「あなたほど幸せな人は知りません」と、heureux を女性形にして言うように薦めていたりもする[注13]。rien が、フランス語の成立の時点で一般的に「もの」を表していたのに対して、最初に説明したように、personne が一般的な「人」という意味で用いられるようになるのは時代が下ってからだったということが、この違いを生んでいると言える。
学生:時代は異なりますが、意味の変化の過程は、rien と似ていますね。
先生:そうだね。もともとは一般名詞だったものが、疑問や否定の文脈で、「なにがしかの」、「なにも」という意味で使われるようになり、やがて代名詞化するということだ。
学生:なるほど。
先生:ここまでに話したことをまとめてみると、ne... rien「何も...ない」も、ne... personne「誰も...ない」も、ne... aucun 〜「どんな〜も...ない」も、すべて古フランス語では、nul を使って表現できたのが、この表現が廃れたのに代わって、用いられるようになったということだ。
学生:現代フランス語では、別の用法しか残っていない nul が、これらの表現を歴史的に理解するための鍵というわけですね。この語が肯定でも否定でも使われたということが、他の語にも影響していったというようにお話を聞いていました。ところで、先生、まだ、ne... jamais と ne... plus と、ne... que が残っていますが、また今度じゃ駄目ですか?
先生:確かに、それを全部やったら、ここまでと同じぐらい時間がかかるね。否定の表現のうち、現代フランス語で不定代名詞、不定形容詞として用いられているものは教えることができたから、また今度ということにしよう。明日の授業の準備もあるし。
学生:はい、実は、この後用事も入っていて。また今度教えて下さい。
先生:さっきから、そわそわとしていると思ったら、やっぱり。そういうときは、率直に言ってもらって大丈夫だからね。
学生:はい、わかりました。先生、今日はありがとうございました。
[注]