目標言語(勉強している言語)を使って友だちができればその言語を勉強する意欲は増すであろうし、その逆もまたしかりである。日本語でなかなか友達ができない、うまく人間関係がいかない、となると日本語を勉強するのがいやになりやすい、ということは自然に理解されるであろう。
日本語ができなければ友達を作るのは難しいだろう、と思われるかもしれないが、実はそうとは言い切れないようである。日本語があまりできなくても友達をうまく作れる人もいるし、日本語がうまいのにうまく友達を作れない人もいる。友達をうまく作れる人は、その先日本語も上達することが多い。ことばができるようになって初めて友達が作れると思う人も多いが、実は逆で、友達がうまく作れる人がことばもうまくなると考えたほうがよいように思われてならない。
私はことばが通じなくても心が通じたという経験について書かれたものを見つけてはストックしているが、例えば、沢木耕太郎『深夜特急』にはそのような旅の経験がつづられているし、池澤夏樹の小説『タマリンドの木』には主人公の日本人女性がカンボジアで動作を交えて子どもたちにクメール語(カンボジアの主要言語)を教えてもらうという経験が語られる印象的なシーンがある。聾(ろう)者の女優、忍足亜希子さんが以前、海外に出たときにことばの通じない人たちが、お互いを知るために何とかしてコミュニケートしようとしてきたという経験について書いていたのを読んだこともある。
では、どうすればことばがあまりできないときに友達が作れるであろうか。ことばによるコミュニケーションに頼りすぎない、ということが大切である気がする。例えば、いっしょに料理をする、サッカーをする、ダンスをする、というように体を使う活動がよい。逆説的であるが、ことばを上達させるためには、ことばに頼りすぎないほうがよい、ということかもしれないのである。ことばに頼りすぎずにまずは人間関係を構築し、それからことばを習得していけばよい。
ことばは人と人をつなぐものでもあるが、別の面からみれば、人と人を隔てるものでもある(と言っていたのは言語学者の津田幸男氏だったか)。すなわち、共通言語があればつながれるが、共通言語がない場合、ことばに頼ろうとするほど、かえって隔たってしまうのである。そんなときはことば以外のコミュニケーションツールから入るのがいいに違いない。
料理やサッカーやダンスは、少ないことばで表現できるメディアである。また、ことばが文脈化[contextualize]されることも重要である。「ニンジンを」と言いながら「ニンジン」を手に取り、「切って」といいながら切れば、「ニンジン」「切って」の意味は理解しやすい。ことばと状況が1対1で結びつけばわかりやすい。以前、ある教え子がメキシコに短期留学して、エクササイズのクラスに参加したら、そこで覚えたスペイン語が一番よく覚えられたと語っていた。TPR [Total Physical Response](全身反応教授法)(Asher, 2009)やナチュラルアプローチ(Krashen & Terrell, 1983)と呼ばれる教授法にも、この考え方は通じているし、最近は記憶の身体性やらアフォーダンス[affordance]といった用語もしばしば聞かれるようになり、言語学習に演劇を取り入れる手法も増えてきている。
私自身も自己表現用の写真を使ったワークショップをすることがある。「私の1枚」と呼べるような自己表現用の写真に簡単な説明文を書いてきてもらう。それを身振り手振りも最大限に活用して、限られた数のキーワード以外はすべて「マママ」で話すというやり方で説明してもらう。「マママ語のワークショップ」と名付けているが、これをすると、いかに少ないことばでコミュニケートできるかということや、ことばの文脈化の重要性、ことばが足りない状況での心理について疑似的に体験することができる。
ことばの文脈化という点では、写真・ビデオ鑑賞や制作、タウンウォーキング、マップ作りといった活動も悪くないはずである。教室での疑似的なタスク(例えば「お店屋さんごっこ」のような練習)ではなく、参加者同士の現実のコミュニケーションそのものになっていれば、単なることばの文脈化以上の意味があるように思う。
参考文献
Asher, J. J.(2009). Learning Another Language Through Actions. 7th Edition. Los Gatos, CA: Sky Oaks Productions. (初版1977.)
Krashen, S.D. & Terrell, T.D. (1983). The Natural Approach: Language Acquisition in the Classroom. London: Prentice Hall Europe.