第二言語の習得にはアイデンティティが関係していると言われる。
料理やサッカーやダンスなどの活動は、そういった活動が好きな人たちにとっては、優れた言語学習活動にもなり得る。それは、前回書いたように言葉が文脈化されるということもあるが、それに加えて参加者のアイデンティティに関係することであるからだと思う。
杉原(2003)は、会話分析の手法で、会話参加者を「日本人/外国人」のようにカテゴリー化してしまいやすい質問として、「日本では……ですが、○○ではどうですか」というように文化や国籍に基づく質問と「日本語では……」と日本語使用について指摘することの2種類を指摘した。これらはいずれも日本語教育の場でも頻繁に見られる場面である。杉原はこの2種類をすべて避けるべきだとは言っていないが、一人ひとりの多様なアイデンティティが現れるような会話も含まれるべきであると述べている。
誰でも性別、年齢はもちろん、趣味、専門、仕事、家族内での地位、母文化など多様なアイデンティティをもっている。そういったものが教室の場で浮かび出ることにより、学習者は委縮せずに自分らしさを出せるようになってくる。日本語学習者を「ただの日本語学習者」に押し込めていてはいけないのである。学習者はただ日本語学習者であるだけでなく、同時にアニメオタクであったり環境科学の研究者であったりもするのである。料理の好きな人は料理で交流することで自分を表現できる。例えば私が日本語の通じないところへ行けば言語的にはマイノリティ(少数者)になるが、同時に野球と将棋と歌が好きで、英語と中国語を話す応用言語学者で日本語教師で、夫で、父親で、名古屋出身で、阪神タイガース・ファンで……という具合にアイデンティティが層をなして重なっている。例えば英語を話すのに四苦八苦しているときに野球の話で盛り上がることができれば、私は「外国人」の地位を脱出し、野球ファンとして相手とつながれるのである。
前回と今回は、コミュニケーションを言葉に頼りすぎないほうがよい場合があるということを書いた。人と人とが結びつくためには、学習者を学習者の地位に押し込めず、多様なアイデンティティを引き出すことが大切である。言葉が十分に使えないのであれば、言葉以外につながれる何かを探せばよい。そこで言葉が文脈化されていけば言葉が身についてくる。言葉を使う場合、音声や文法以上に、語彙が直接に人間のアイデンティティに関わり得るということは自然に理解されるであろう。それは語彙が音声や文法以上に直接に意味を担っているからである。
参考文献
杉原由美(2003)「地域の多文化間対話活動における参加者のカテゴリー化実践―エスノメソドロジーの視点から―」『世界の日本語教育』13、国際交流基金日本語国際センター
(http://www.jpf.go.jp/j/project/japanese/archive/globe/13/001__018.PDFで閲覧可能)