第124回で、「物」があるから「語」があり、「語」があることによって「物」が言語体系の中にとりこまれると述べました。今回は「物」がなくなっても「語」が残ることがある、ということについて話題にしたいと思います。
『日本国語大辞典』の見出し「あみだな」「げたばこ」「ふでばこ」にはそれぞれ次のように記されています。
あみだな【網棚】〔名〕電車、バスなどで、手荷物をのせるための、網を張ってつくった棚。*落梅集〔1901〕〈島崎藤村〉利根川だより「手荷物洋傘などは網棚に乗せぬ」*暗夜行路〔1921~37〕〈志賀直哉〉三・九「大(おほき)い男人形を上の網棚(アミダナ)へのせ」
げたばこ【下駄箱】〔名〕(1)玄関などに置いて、靴や下駄などの履物を入れておく棚のついた箱。下足箱。*滑稽本・楽屋方言〔1804〕一・春狂言「茶棚の下に傘の置所、下駄箱(ゲタハコ)戸棚小長持」*二人女房〔1891~92〕〈尾崎紅葉〉上・六「粉の散る白鞣の朴歯を下駄箱(ゲタバコ)に形附ける」*虞美人草〔1907〕〈夏目漱石〉一三「下駄箱(ゲタバコ)の透(す)いて見える格子をそろりと明けた」(以下略)
ふでばこ【筆箱・筆匣】〔名〕筆を入れておく箱。また、鉛筆、ペン、消しゴムなどの筆記用具を入れる長方形の箱。皮製・布製の袋状のものなどもいう。*羅葡日辞書〔1595〕「Calamarium 〈略〉 Fudezzutçu, fudebaco (フデバコ)」*狂歌・豊蔵坊信海狂歌集〔17C後〕「命毛のながき五十の筆はこを明てこころむるうのとしの春」*殿村篠斎宛馬琴書簡-文政一一年〔1828〕三月二〇日「当地筆工に注文いたし、五拾本斗結せ候処、用立不申候。〈略〉打捨置、ふでばこをふさげ候のみ也」*和英語林集成(再版)〔1872〕「Fudebako フデバコ 筆匣」
筆者は通勤などで都営地下鉄を使うことが多いのですが、ある時、「アミダナ(網棚)」が透明なプラスチックになったことに気づきました。透明なので、物を載せると落ちないだろうか、などとよけいなことが気になって、しばらく落ち着かない気持ちになったことを記憶しています。だからといって、その前は網だったかというとそうではないので、ただの「気分」だったと思います。インターネットで調べてみると、1960~1970年頃にはまだ網の「アミダナ」があったようで、筆者も横須賀線か東海道線でそれを見たように思うのですが、あるいは記憶が違っているかもしれません。
「JR西の金沢支社によると、届く忘れ物は列車名・号車、座席位置、網棚か席か、駅ならばコンコースか何番ホームか、どのトイレかなど場所を詳しく記録。品物の色や特徴、写真もなるべく登録する仕組みだ」(2023年6月13日『朝日新聞』富山全県版)のように、「アミダナ」という語は現在でもそのまま使われています。
『三省堂国語辞典』第八版(2022年)は見出し「げたばこ」を「くつばこ。〔昔は、げたを入れた〕」と説明しています。『岩波国語辞典』第8版(2019年)では「げたばこ」が見出しになっていません。『明鏡国語辞典』第三版(2021年)は「げたばこ」を見出しにして「靴・下駄などの履物を収納しておくための家具」と説明しています。現在は 「押し入れやクローゼット、シューズボックスなども閉めたままにせず、数センチ開けておくといいでしょう」(2022年7月1日『週刊朝日』)のように、「シューズボックス」という語も使われていますが、『三省堂国語辞典』も『岩波国語辞典』も『明鏡国語辞典』もこの語は見出しにしていません。
『三省堂国語辞典』第八版は見出し「ふでばこ」を「えんぴつ・ボールペン・消しゴムなどを入れる箱。ペン ケース」と説明しており、説明中に「ペンケース」という語が使われていますが、「ペンケース」は見出しにはなっていません。〈すらすらと書く〉という意味で「筆を走らせる」と表現したり、〈作家などが文章を書くことをやめる〉ことを「筆を折る・筆を断つ」と表現したりしますが、「ペンを走らせる」は表現としてそれほど不自然ではないように感じます。ただし、これは鉛筆やシャープペンシル、ボールペンや万年筆で字を書く経験をしている世代の感覚かもしれません。現在でも手で字をまったく書かないということはないでしょうが、それでもパソコンを使って文書を作ったり、メモはスマートフォンに書いておくことが多い世代にとっては「ペンを走らせる」も「違和感」のある表現になる日がきてもおかしくないでしょう。漢語「カクヒツ(擱筆)」は〈筆を置く〉という語義で、〈書き終えること〉を意味していますが、こういう語も使う場面がなくなっていく可能性はありますね。
コンクリートでできていても「マクラギ(枕木)」、革でなくても「ツリカワ(つり革)」など、物がなくなってもことばが使われ続けているということはあります。他にどんなことばがあるか、考えてみるのもおもしろいかもしれません。