『日本国語大辞典』を読んでいると、「この語とこの語とは同じ語なんだ」と思うことがあります。『日本国語大辞典』の見出し「あら〔荒・粗〕」をあげてみましょう。使用例は省きました。
あら【荒・粗】【一】〔語素〕主として名詞の上について、これと熟合する。(1)勢いのはげしいさまを表わす。(イ)勇ましい。たけだけしい。また、乱暴な。粗暴な。「荒馬」「荒武者」など。(ロ)荒っぽい。激しい。 「荒波」「荒海」「荒行」「荒療治」など。(2)出来具合が精密でないさまをいう。(イ)人手の加わっていない、自然のままの。 「あらたま」「あらかね」など。(ロ)十分に精練されていないさま。粗製の。雑な。細かでない。すきまの多い。 「荒妙(あらたえ)」「荒炭」「荒垣」「荒薦(あらこも)」など。(ハ)ととのっていないさま。荒れはてたさま。(ニ)おおよその。大体の。あらまし。 「あら削り」「あら筋」「あらづもり」「あら塗り」「あら彫り」など。【二】〔名〕よい部分を大体取ってしまった残りをいう。(1)米などのぬか。もみぬか。あらぬか。(2)魚鳥獣などの肉を料理に使って、あとに残った肉のついている骨や頭や臓物。粗骨(あらぼね)。(3)粗製のもの。雑なもの。(4)欠点。おちど。特に人の小さな欠点をいう。
『万葉集』には「荒熊(アラクマ)」という語がみられます。「アラウマ(荒馬)」は現代日本語でも使われているといっていいでしょう。これらの「アラ」(【一】(1)(イ))は〈気があらい〉ということです。「アラナミ(荒波)」の「アラ」(【一】(1)(ロ))は〈勢いが激しい〉ということで、少し意味が異なります。
『日本国語大辞典』は(【一】(2))を「出来具合が精密でないさま」としてくくっていますが、人手が加わっている物に対して、人手が加わっていない物を「アラ~」と呼ぶことがまずあったとみることができそうです。「アラカネ(粗金)」は〈山から採掘したままで精錬してない金属〉ですし、「アラキ(荒木)」は〈切り出したままで、まだ皮をとらない木。加工していない木材〉です。人手が加わった物を一方に置けば、人手が加わっていないものは、「十分に精錬されていない」(【一】(2)(ロ))ということになります。これが、もっとだめになると「ととのっていないさま。荒れはてたさま」(【一】(2)(ハ))となります。イとロはプラスマイナスでいえば、「アラ」をマイナスとしてみている、つまりそういう「価値観」がはたらいているとみることができそうです。ハはプラスマイナスということではなく、〈概略〉という意味の「アラ~」ですね。
さて、【二】の「よい部分を大体取ってしまった残りをいう」は【一】に対して、積極的にだめなものを指す「アラ~」といっていいでしょう。「アラニ(あら煮)」はおいしいですが、〈魚のあらの煮付け〉ですね。魚を一匹まるごと買って、さばいてもらう時に「あらは持って帰りますか」と聞かれる「アラ」ですね。【二】(2)には「魚鳥獣などの肉を料理に使って、あとに残った肉のついている骨や頭や臓物」と記されています。現代日本語では「アラ」は「さかなをおろしたあとの、頭・骨などの部分」(『三省堂国語辞典』第八版、2022年)が一般的と思いますが、魚だけではなく、鳥獣にも「アラ」があったということですね。現在は鳥獣の肉の場合、さばいてあるものが売られていることがほとんどなので、「アラ」という語も使われる場面が制限されていき、ひろくは使われなくなったと思われます。
さて、「人のあらを探す」という時の「アラ」が【二】の(4)です。『日本国語大辞典』は18世紀以降の例を掲げています。語義は具体的なものから、次第に抽象的なものに転換していくことがありますが、「アラ」はそうしたケースのわかりやすい例だといえるでしょう。『日本国語大辞典』の見出し「あらさがし」は次のように記されています。
あらさがし【粗捜・粗探】〔名〕人の過失または欠点を探したてること。また、探し出して悪口を言うこと。あなさがし。*茶話〔1915~30〕〈薄田泣菫〉女の辛抱「心掛一つで疵探(アラサガ)しの皮肉家にはなれるものだ」*父─その死〔1949〕〈幸田文〉菅野の記「意固地になって、まるであら捜しをするやうに一々文句をつけ、女中などは傍杖できっと泣かされてゐた」
「荒海」「あら煮」「あら探し」の「アラ」がもともとは一つの語であることは、現代日本語を母語とする人にはわかりにくそうですね。
「風がはげしく吹きまくること。また、その風。とくに海上の暴風や強風にあおられて生じる海水のしぶきをいう。また、雨や雪などを含んで激しく吹きつける風」を「シマキ(風巻)」といいますが、「シ」は〈風〉をあらわす古語と考えられています。そうだとすると「アラシ」の「アラ」も【一】(1)(ロ)〈激しい〉という意味の「アラ」で、〈激しい風〉が「アラシ」ということになりますね。