前回、「新しい日常」の中で「たまり場」がなくなったことについて書いた。今回は「たまり場」とはどんな場なのかについて、少し詳しく書きたい。
学生時代、キャンパスで突撃アンケートを受けたことがある。建築学科の学生が卒論を書くためのアンケートをしているのだった。たしか、キャンパス内で一番印象に残る場所はどこかとか、一番落ち着く場所はどこかというような質問だった。それ以来、この質問の意味をときどき思い出すのだが、人間には、明確な目的もなく何となく集まれる場所が必要なのではないかと思う。俗に言う「たまり場」である。
「集う(つどう)」ということばがある。「(同じ目的をもって人々が)寄り集まる。集合する。」ことなどと説明される(『大辞林 第四版』)。しかし、「家族がリビングに集う」などと言う場合、何か目的を持ってリビングに来る場合ばかりではないだろう。むしろ、何の目的もなく何となくリビングに「たまる」ことが多いのではないだろうか。以前、作家の三田誠広(まさひろ)が、新聞紙上で子ども部屋など要らないという趣旨の話を書いていた[注1]。自分の子どもは勉強も遊びも全部リビングでしていて、そのほうがよいという趣旨だった。子どもはある一定の年齢になると自分のスペースもほしくなるものだが、一方で、私自身も、自分の部屋があるのにリビングで勉強をしたり仕事をしたりすることが結構あるし、似たような話をよく聞くのである。
邪魔されたくないときは自分の部屋にこもるのも悪くはない。しかし、一方で、なぜだかわからないが、リビングの方が落ち着けるときもある。手を伸ばせばお茶やお菓子があったり、新聞や雑誌が転がっていたりして雑然としているが、それはそれで悪くない。仕事や勉強を始めたら家族に邪魔されたくはないが、邪魔されない限りはそこにいても気にならない。本当に親しい人間ならば、話をせずに横にいても気にならないものだ。
このような場所が必要なのは、たぶん家族だけではない。学校もそうだろうし、会社や地域コミュニティでも、何となく「たまる」ことができる場はある方がいいにちがいない。私の故郷の名古屋は喫茶店が多いことで知られていて、その理由がさまざまに語られているが、私の考えでは、これは戦争の時に街の中心部が焼けて「白い街」[注2]になってしまったこととも関係がある。人間は何もないところでは落ち着いて話ができないものだ。コミュニケーションには、木陰のような、囲われたスペースが必要にちがいない。なんとなくたまる場所として喫茶店は機能したのだろう。カフェ、居酒屋、バー、サロンなどは飲食店であると同時に大人のたまり場なのである。
「たまり場」がほしいのは、大人も子どもも同じだろう。最近、コンビニに中学生や小学生がたむろしていることが問題になったりするが、それは集まっていることだけが問題なのではなく、そこしか「居場所」がないことが問題なのである。
ルイ・ヴィトンの店舗なども手がける建築家、青木淳は、『原っぱと遊園地』という本の中で、何をするかを集まったメンバーで決められるのが原っぱであり、初めから遊び方が決められている遊園地と原っぱは本質的に異なると論じている。建築物にも原っぱタイプと遊園地タイプがあるということである。この原っぱの概念は、たまり場的な発想とも共通する。ブランコやすべり台に興味のない子どもでも、原っぱには来られるのである。
劇作家・演出家の平田オリザは『演劇入門』という本の中で「セミ・パブリック」という概念を提唱し、「セミ・パブリック」な場こそがドラマが生まれる場として重要だと述べている。これは病院の待合室やバス停のように、見知らぬ人同士がある目的のために集まっているが、自由に話すことが可能な場である。誰かと話すためにわざわざ病院やバス停に行く人はいないかもしれないが、ここで重要なのは見知らぬ人間同士が出会う可能性があるということだ。出会いを生む場をいかにして仕組めるか、それが現代の課題である。
何となく集う場は、あまりきれいすぎてもいけない。たしか、昔、劇作家・演出家の鴻上尚史(こうかみしょうじ)は「劇場が人間の顔をするまで時間がかかる」という意味のことを言っていた。私は新しくてきれいな建物を見るたびにこの表現を思い出す。きれいな建物は目的のはっきりした集まりにはよいと思うが、ただ何となくぶらりと集まるには落ち着かない。少し雑然としている感じがいいのである。きれいすぎる場は、集まるために目的を必要とするからではないだろうか。
理由がなくても集まれる、雑然とした場所で、話しても話さなくてもいい誰かがいる。それが「たまり場」の条件だろう。「誰か」は家族や仲のよい友達であるかもしれないし、知らない相手かもしれない。しかし、どちらにしても、特別に緊張する理由のない相手であるにちがいない。
学校にも、会社にも、ご近所にも、家族にも、「たまり場」は必要だと思うのである。もしかしたら、国と国、文化と文化の間にもそういう場が必要なのではないだろうか。ビジネスや留学などの交流でたまり場にソフトな力がたまってゆくのである。コロナ禍でそれが失われつつあるとしたら大きな問題であり、なんとかしなければならない。
参考文献
青木 淳(2004)『原っぱと遊園地』王国社
平田オリザ(1998)『演劇入門』講談社
三田誠広(1998)『ぼくのリビングルーム』KSS出版
[注]