画数の最も多い漢字として、84画の字がある、といわれることがある【図1】。
昭和のある日、とある大手証券会社に大金を持って表れたその人物が、名刺に残していったと伝えられる。その字体は、【図2】のように印刷した資料もある。
当人は、その時に「たいと」と名乗ったそうだ。ただ、電話帳など他の姓のデータには見いだすことができず、当時は用いることが可能であった仮名(かめい)ではないかと推測される。
読み方は、「だいと」「おとど」として転載する名字や国字の辞書なども現れている。「おとど」とは、大臣を表す古語であろうか。伝聞が転化したものにしては、いささか差が大きい。
私は、タイという音を持つと、トウという音を持つという2つの漢字を並べて用いた、2字からなる仮名(かめい)だったのでは、と考えている。それが、情報として一人歩きをしていくなかで、1字として認識されるようになり、姓の辞書にも転載され、世界最大の画数を有する国字として、一部で知られるようになった、ということではなかろうか。
2字からなる仮名(かめい)がいつしかくっついて、1字の国字とされるに至る。もともと存在しない字を幽霊文字と呼んでいる。辞書学でいう、辞書においてまれに誤って生じていつの間にか載ってしまった「ゴーストワード」つまり幽霊語からの類推であった。
JIS第2水準にあり、ケータイでも「シ」という、JIS採用経緯とは無関係の音で変換される「妛」は、タモリの出るテレビ番組でも紹介されたそうだ。限界集落と名付けられる地で用いられていた「山女」の合字を作字して印刷する際に、写った影を「一」と誤認した人がいたことから生じたものであった。幽霊文字の典型といえる(字体のみがたまたま一致する古い例はある)。
ゴーストタウンとまではいえないものの住民も僅かなその地からの情報が、JIS公布以降全く寄せられていなかったことは分かるが、それと比べ、姓として「たいと」は、繰り返し報道がなされる情報社会の中で未だ実在の記録が現れない点から見ても、その類ではないかと思われる。
幽霊文字は、何かに載せられると、第三者によって文字としての意味・用法を与えられる傾向がある。「妛」もそうだが、すでに幽霊ではなく、ゾンビのごとく復活をするのだ。キョンシーのように一人歩きをしはじめる。キョンシーとは、映画で有名になった死体が甦った妖怪で、「殭(歹+彊-弓)屍」を広東語で読んだものであり、大陸では「僵尸」と書く。
84画のその幽霊文字とおぼしいものは、去年から新たな固有名詞としての使用を獲得した。千葉県松戸市の北松戸駅前で「おとど」と読むラーメン屋の店名となったのだ。正式な登録がどうなったのかはともかく、看板や暖簾に図1の形が大きく明示され、店内には「国字」を用いた店名の独自の由来まで記されている。画数に合わせて84食限定とも聞く。賑わっているようだが、どうしてこの字を知ったのかなど、ラーメンを食べながら詳しくお話をうかがいたいと願っている。
ここに用法を得たこの84画は、ついに使われることで字としての位置を得た。少なくとも個人文字や位相文字であるともはや認めざるを得ないものとなったといえる。この「字」は、キョンシー文字とでもいえよう。「字」は個人の作であっても、そこに何らかの必要性や表現力など魅力が感じ取られれば、こうして使用の循環と情報の広がりを生み出すものである。語が先にあるとは限らないのが、漢字圏の命名だ。
そういう一人歩きの例を次回、またいくつか紹介したい。