漢字の現在

第98回 ベトナムの♡マーク

筆者:
2011年5月13日

漢字を離れて、記号のたぐいにも話を及ばせてみる。


 テストで正解のときには、どういうマークが付きますか?


チェック(チェク)と言って指で書いている(第37回参照)。いろいろあるようだが、やはりメインは中国式であり、「○」は車のタイヤのようで、使わないとのこと。日本や韓国とは違う。なお、ベトナムでは試験の前には卵は食べない風習があり、それは「0」に似ているから、と機内誌で読んだが、これは西洋の文字に対する一種の文字霊思想といえよう。

外国の文化を色々と取り入れて混ぜ合わせる文化は、日本の文化や沖縄のチャンプルー文化を思わせるが、文字はベトナムでは結局、極度の単一化を選んだ。しかし、そのローマ字による文中に、ある程度、マークは取り込んでいるそうだ。

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中国風の形の「双喜字」は、日本と違って、結婚式に関係するようなところで随所に記されていた。

「好き♡」というように、文末に添える「♡」を、ベトナムでも使うという。日中韓と同じだが、ここではなんと男子までよく使うそうだ。ただし、ケータイでは、日本のように何百も絵文字が入ってはおらず、そんなに多くは使わないとのこと。また、父母からのメールには絵文字の類は使われていないといい、長幼の序を重んじる儒教の影響か、ここでも位相差が生じているのだ。

31歳の男性研究者によると、自身は、ケータイメールでは「(^^)」、パソコンメールでは「:-)」のたぐいを使うとのことで、メディアによって日本系の顔文字と欧米系の顔文字という位相差が生じているらしい。角度の違いのみならず、笑いを表すポイントが目と口とで大きく異なっている。こうしたものは男子も使うが、もちろん個人差もあるのだろう。

日本人が好む、相手を傷つけずに、本心を察してもらうための曖昧で微妙な表情、たとえば「(^^;)」という焦り笑いは、さすがにベトナムの人々にはニュアンスが分からないそうで、通じなかった。困った時の冷や汗と説明すると、やっと笑いが起こった。落書きや看板には、ローマ字に対して表情や「*」状の絵文字のような付加や装飾化が散見され、生真面目なベトナム人の愛嬌が垣間見られた。

大学では、2日目に、何年か前に熱に浮かされたように一気に調べた「エビ」の「蝦・海老・蛯」などの漢字表記の話をしてみた。ベトナムでもエビは食されており、「入家随俗」(ニャップジャートゥイトゥック 郷に入れば郷に従え)、私もその時までに、大小30匹は頂いていたかもしれない。ベトナムでは、普段も食べるが、お祝いの時にも食べるとのこと。中国と同じで、つまりは美味しいから食べる、ということだそうだ。一方、日本では、古くは赤い色のためだけでなく、ヒゲのような触覚が生えていて、背中が曲がっている老人(おきな)だと見なし「海のおきな」と呼んで、長生きできますようにと願い、また長寿のお祝いの意を込めて食べることがあった。道理で、正月のお節によく入っている。こうした風習は、「海老」という表記の木簡での使用例から見て、奈良以前にさかのぼれそうだ。

エビの漢字表記の変遷すなわち時代差と、その表記の選ばれ方に見られる地域差、そして集団による認知度の差という位相差をまとめた話だが、多岐にわたってややこしくなるので、目でも分かってもらえるように、ふだんは使わなくなったパワーポイントも復活させてみた。翻訳と通訳に当たって下さったベトナム人の先生は、エビの歴史について、たった1つだけど、研究方法の参考になるのでは、と微意を読み取ってくださっていた。

「海老」と「蝦」とから国字「螧」が生じたのだが、その虫偏の隣の「耆」が何だかはっきりとは分からないような層が、「虫偏に耆」という国字を受容する中で、旁の「日」を脱落させて「老」に変わっていった、と推測を説明すると、うんうんと聡明そうな女子学生がうなづいてくれる。

日本では、東北に偏っていた「蛯」という国字の理解層がマスメディアのために拡大し、位相文字化したことについて、その立役者であるエビちゃんこと蛯原友里の貼り込んでおいた3枚の画像を見ては、やはりうんうんうなずき、きれいだと納得していた。その後、エビちゃん自身は結婚をされ、本名は変わってしまったのだろうが、この字の理解度アップへの影響は、きっといつまでかは残るであろう。ベトナムでも、エビちゃんばりのキリッとしたような円らな目をした人をときどき見かけた。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』
『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究により、2007年度金田一京助博士記念賞に輝いた笹原宏之先生から、「漢字の現在」について写真などをまじえてご紹介いただきます。