文字や記号に集団や使用場面による差、つまり位相差が生じる原因について、日本のことはいくつか分かってきたような気がする。ベトナムでも、若年女性を中心として、かわいらしい記号が付加されているとの話(前々回)を受けて、少々聞きにくいが重要な意味を含むので、次のことを質問してみた。
「かわいい」と「きれい」と「うつくしい」、もし言われるとしたら、どれが一番嬉しいものですか?
男子学生たちも、なぜか嬉しそうに挙手してくれた。女子では、以下のようになった。
・うつくしい
đẹp チュノムでは「」、あるいはその「美」が「りっしんべん」や「日偏」などでも書かれた。また、「美麗」という中国語と同じ漢越語もある。
2名だけで少数、オシャレな女優さんのような子もそのうちの1人だった。
・きれい
xinh チュノムでは「」など。漢字で発音がやや近い「清」も当てられたようだ。先のđẹpは、ここにも重なるそうだ。「漂亮」という中国語と同じ系統の漢越語もある。このxinhは男性にも使えるとのことだ。
これにもやはり2名くらいしか手が挙がらない。
・かわいい
dễ thương :đáng yêu チュノム・漢字では前者は「易傷」だろうか。少なくとも2字目はこの表記に前例がある。後者はチュノムで「」など、1字目には「当」も当てられ、価する、愛する、つまり「愛するに価する」という意味の語である。中国語と同じ漢越語の「可愛」を直訳した語のようだ。
これは、大人気で、残りの20名以上が挙手してくれた。むろん、場面や相手にもよるのだろうが、面白い結果だった。
これは、語としては子供や女性に使うもので、老人や男性には使えないとのこと、その点は、「先生、かわいい」などと言える今の日本とは違う。日本では、和語の「かわいい」は「顔映(はゆ)し」の転じたもので、漢語の「可愛」と意味と発音の類似により重なったものだ。年上の男性やおばあさんなどにも発する女子らもいる。
幼いもの、小さいものへの愛玩の情感は、古く『枕草子』にも『源氏物語』にも見え、弱いものへのシンパシーは判官贔屓の例を引くまでもなく、日本人が抱き続けてきたものだろう。「○○弁をしゃべる女の子はカワイイ」という意識は、方言萌えという発展形まで生んだ。身近な対象に対するそこには、心のどこかにいわゆる標準語が上位にあり、そこに達していないとも見られる他者への目線があるような気がしないでもない。それは、現在の「かわいい」が、恥ずかしさに次いで生じた哀れみや不憫さの感情に発し、「かわいそう」、当て字で「可愛そう」「可哀相」「可哀想」へと分岐した、という経緯と底の部分で関わっているのかもしれない。
平均的な顔立ち(童顔、瓜実顔、切れ長の目など)や体形も、そうした意識を産む土壌として考えておく必要がないだろうか。「平均顔」なるものが幾枚かの写真などから組成されることがあるが、それは黄色人種と一括りされるアジア各国の人たちでもある明確な違いを呈するだけではなく、国内でも各地でしばしば見いだせる特徴を表すことがある。そこには歴史的、文化的な種々の原因が思い浮かんでくる。
中国の学生は、「可愛」と言われると、子供扱いされているようだと怒るとのこと。近頃は日本のアニメなどのサブカルチャーから「カワイイ」という表現が一部で流行り、「カ娃依」などと表記され、使われるようになったが、あくまでも日本風の感情を模した感動詞的な発話にすぎないものである。逆に日本では、「美しい」なんて言われれば、物として扱われているようだから嫌だ、などと怒りを露わにする女子学生が少なからずいる。天知茂の明智探偵がいたならば、さりげなく言ってのけそうだが、実際には今でも「女心」は難しいようだ。日本では、「きれい」も人気だが、「かわいい」の圧勝となる。
カタカナで「キレイ」とすると、独特のニュアンスが生まれるほか、清潔という意味になる、という声も少なくない。これは、コマーシャルで流れる商品名が干渉した結果が一因となっている。また、「綺麗」は良いが、「奇麗」はいやだともいうのは、「奇妙」などの「奇」が入っていることに加え、きっと当て字だという思い込みも、そう判断させているのかもしれない。
補記 日本では、「美しい日本語」「美しい文字」、「正しい日本語」「正しい漢字」といった表現がときに好まれる。これらの形容詞は「ク活用」でなく「シク活用」なので、実は主観的な感情、感覚を表す、という性質が隠れていると見ることもできるが、特に「正しい」においてはなにやら客観的に響く。