野球は、サッカーよりも得点が入る傾向がある。しかし、バスケットボールのようには入らない。ある年のプロ野球公式戦では、1試合平均合計9点程度だったそうだ。そうした点数を表示する野球場も、世の中の趨勢を受け、あるいは先取りし、電光スコアボードがすっかり一般化して久しい。アナログな点画を点描で示そうとするドット文字というものは、そもそもいつからあるのだろう。人間が動いて文字の形を体現する人文字は、唐代ころから舞としてあったように記憶するが、球場の座席のように人々の配置がマトリックス(ここでは格子状くらいの意)になっていたわけではなさそうだ。
地方で大文字焼きなどとも呼ばれることのある京都五山(の)送り火も、よく見るとドット文字的だが、元より升目が碁盤の目状に定まっているわけではないようだ。はらいなどの斜め線をきれいに描くために、どこにでも点を置けるものは、偽ドット文字というほどでも、こずるいというほどでもないが、なにか違う。碁盤といえば、戦前には、碁盤の絵に、碁石を並べて文字を表した宣伝広告があった。これは、升目に従って点画を表すもので、一部ではタイルでも同様の表示が行われることがあるが、むろんそれらは発光はしない。高層ビルの窓ガラスのブラインドを上げ下げして文字や絵を表示するものもある。それは、発光はしているが、窓ガラスは縦長の物が多く、表せる文字に限界がある。
「0」から「9」の数字を、「日」のような形にして7本の線で示す方式は、従来デジタル時計や株式市場の株価表示などで活躍し、「A」から「Z」までのローマ字(小文字も)も表そうとすることがあるが、後者は無理がある。昔、それをかっこよく感じて買った腕時計でも、月や曜日を表すローマ字は、「A」は何とかなっても「B」くらいから早くも表現上でも弁別上でも苦しくなり、線を何本か足して表示せざるをえなかった。
ドット文字に戻ると、食品の包装には、「賞味期限」の4字とその期日の数字(とときには記号)がたったの7ドット前後で記されることがある。数字の部分が肝心な情報であり、元よりこの漢字列は点画が間引かれてもつぶれても何となく読める。後楽園が最後まで避けたいわば美学を軽々と突破している。書風のお手本となるわけではないので咎められることもない。読めれば十分な文字で、そこにお金を掛け、エネルギーを浪費する必要もない。明朝体の点の微妙な形やうろこ、筆押さえ、筆の入りまで示そうとするフォントから、地下鉄やバスの行き先などでのわずかに明朝体を意識した表示、「一」だけは鱗を付けて他の「-」「ー」などの記号と区別を表した表示もあれば、こういう素朴なドット文字も必要に応じて存在している。デザインする人も読み取る人間も、字を認識する能力を備えていればこそのことだ。
「濾」のように、JISの表示装置用16ドット、ドットプリンタ用24ドットの字形には、点画の間引きをできるならば避けようとする目的もあったのだろうか、既存の理系社会での位相的な略字(沪)が選択された例がある。ビットマップフォント全盛期には、画面やプリントアウトにもよく登場したはずだ。一方、間引き字形を創出することで、元の字体として読ませる手法は、高速道路の公団文字が積極的なもので、見せるため、認知させるための極めて味のある位相字形だった。これは、新規には用いられなくなってしまった。
ケータイの低解像度画面でのドット字形は、メーカーの人たちが点画を省きながらデザインしていったと報道されたことがあった。NTTドコモの絵文字だって、元は一気にデザインされたものと言う。ワープロソフトのワードも一太郎も、各種のメールソフトもWEBのページも、ブラウザ上ではかなり点画の略された字形が表示されているが、ふだんは気付かれていない。理解字であれば、その字として瞬間的にパターン認識されるためだ。ただ、あやふやに覚えられている字では、まれにそれをそのまま写した字体も紙面に登場することがある。