パ・リーグの試合は、たまにテレビで放送されていて、ときどき観ていた。デーゲームや薄暮試合が多かったようだ。日生や藤井寺など、まだ行ったことのない地で繰り広げられる乱打戦は、夜のニュースで観てもワクワクした。あまり知らない選手が見慣れぬユニフォームで、指名打者制などセリーグと微妙に異なるルールで、日本シリーズ目がけて公式戦をしている。オールスター戦でも、そうした球場が映る。
どこの球場だったか、チームの得点の合計欄に「R」とあった。誰かがたぶん何とかという英単語の頭文字だろうと言ったが、当たっていたのだろうか。
神宮球場には、近頃も早慶戦に行った。客席が混み合っていて、外野席から子供とやっと入れて、敵方の中、静かに応援をした。そこでは、「宮」の字の「呂」が「口」と大きめの「口」とを縦に重ねた字体となっていた。由緒ある古い筆字を活かしたものだそうで、活字書体でもそうなっており、球場名などに波及したものだ。
野球は数字のスポーツだ。主なプレーは数字となって記録され、成績も数値化される。球場ごとに、数字の字形には個性が溢れていた。とりわけ甲子園は際立っていて、「ろ」のような形で表現された「3」などは、今でも電光掲示板に受け継がれている。
子供のころ、野球選手よりも審判員になりたいと思った。いや肩も弱く、何かと大変そうなので、公式記録員になりたい、などと本当に思ったものだ。ヒットかエラーかといった判断を瞬時に的確に行い、ホームランの推定飛距離を割り出し、ときには審判にボールカウントミスを伝える。自分が公式な記録を残す。予備は今、一人しかいないとか。一度だけ見た、写真で綴じ込まれていた本物の記録員による手書きのスコアカードは、実に整然として、きれいな字のもので、憧れだった。
その公式スコアカードは、それまで本で身に付けた表記法(早稲田式であった)とだいぶ違っていえ、初めは「なんだ? これも覚えないといけないのか」と思ったが、シンプルで字も大きく見やすい。シングルヒットは「/」ではなく、大きめの「^」の下に「1」、ホームランは「◇」ではなく、「^」の下に「H」と書く。その慶應式とよばれるプロ野球セ・パ両リーグが採用しているスコアカードも練習してみた。今思えば、この状況も日本らしいことなのかもしれない。こういう表記さえも流派が分かれ、統一がなされぬままそれぞれに歴史を重ねることで、多様性が位相として維持されている。
珍しく行ったスポーツ用品店で買ったスコアブックに、NHKのテレビ中継で高校野球4試合、続けて民放の巨人贔屓にも聞こえるプロ野球のナイター中継、それも時間切れで放送が終わればラジオで続きを聴取し、1日に合計5試合もスコアを付けた夏の日もあった。時間も体力もたっぷりとあり、学校の勉強も受験勉強も怠り、祖父母との食事中にも記入しつづけていた高校生のあのころ、意味をもつプレーが数字と記号、文字に置き換わることが楽しかった。選び抜かれた選手、特にプロ選手の行為に対して記録を付け、新記録に立ち会うワクワク、ドキドキ感も何度も味わった。
何よりも、当事者としてではなく、一歩引いて、動きの何かを記録し、残すことが好きだったようだ。きちんと多くの情報がとどめられたそれを、後から見返すのも嬉しかった。絵を見えたとおりに描いたり、字を見えたとおりにレタリングしたり、転写したりしようとする癖ともつながっているのか。子供たちの繰り広げる試合は、初めはエラーが続出し、展開が大きく、付けにくそうで、まだ機会を得ない。ともあれ、スコアに基づけばフイルムがなかった時代のプレーもおおまかに再現が可能だ。ただ、記録の神様、宇佐見徹也氏によれば、一リーグ時代には、投球数などの欠けている記録や、観客数の分からない記録もあるとのこと、今となっては、正確なところは永遠の謎となってしまっている。
野球からは多くを学んだ。高校野球やプロ野球の選手には、見慣れぬ姓が多い。その一因が野球選手を輩出する西日本での姓の多様性の反映だと気付くまでには時間がかかった。ありのままを記録にとどめていると、対象化の機会が得られる。ラッキーセブンとよばれる7回の表裏の攻撃時になると、それぞれのファンによって派手に応援が繰り広げられるのに、なぜか得点が入りにくく、意外に動きが少ないままに肩すかしを食いやすい。こういった、「口伝」や「常識」を再考する機会も多かった。今でも、そうした悪戦苦闘は対象を換えて、愉しみながら続いているように思われる。