トリリンガルの教え子が通訳をすると中国からソウルに駆けつけてくれた。通訳ができるまでに、それぞれの言語を身に付けていて、実に羨ましい。ただ、中国語、韓国語、日本語を別個に獲得していったそうで、漢語の単語(の源)が2、3か国語で共通していても、つまりいわゆる同形語の類であっても、さほど意識はしていないそうだ。頭の別々の所に格納されているようで、それは至極自然なことで、同形語によるいわば直訳だとニュアンスにズレも生じかねず、その場その場で最適な翻訳ができることだろう。
彼女の手作りの名刺は中国語で書かれていたが、「専任講師」だけが日本式の字体だった。指摘してみると、それは日本語だから自然とそうなった、ということのようだった。言語と文字の切り替わり方が同調している点が興味深い。これは、漢字だから起こる現象ということになるだろうか。
「白紙」(ハクシ)と「백지」(ペクチ baekji)は、同じ漢語として意識していたそうだ。ただ、韓国系の朝鮮族であるため、朝鮮語の漢字表記は日常的なものではないそうだ。「僑胞」(교포 キョッポ)と自己紹介していたが、街中などで私も、と返す方もいて、韓国内にも案外多いようだ。中国東北部の朝鮮族の人には、朝鮮語としての漢字を、字義と音読みも載せた教科書によって学んだ、という人もいる。
「문」(ムン mun)は、中国語の「門」(メン men2)と発音も意味も似ているので、「同形語」と最近は思うようになったとのことだ。日本語もマスターしているので、「門」(モン)が媒介した可能性もある。
「귤」(キュル gyul)と「桔子」(ジューズ ju2zi)は、「同じもの(果実)とは分かっていたが、漢字が一緒だったんですか?」。漢字の「橘」とは、その意識の上で、意味にズレも生じている可能性が高い。
「点心」と「점심」(チョムシム tyomsim)も、「違うもの(食べ物)なので」、全く同定していなかったそうだ。それぞれを耳から、あるいは目から別々に身に付け、覚えた結果、頭の中の「辞書」には別々に格納されていたそうだ。
「ホァジャンシル」は、日本語の「化粧室」の3字を朝鮮漢字音で読んで定着した語形だ。病院に入院中の老いた祖母は、同音の「火葬室」を連想してイヤだと言っていたと話してくれた。また、「ホァジャン」の部分が「化粧」だということを分からないというのは、留学してくる学生にも聞いたことが確かあったのだが、40歳前後の研究者の韓国人男性も同様とのことであった。
また、彼女によると、「開始ザオ(zao4)」、または「ザオ(zao4)」といって、家庭内で食事を始めていたそうだ。「いただきます」に当たることばだそうだが、「ザオ(zao4)」は何か分からない、漢字も知らないのだそうだ。中国語辞典にもないし、留学生たちも聞いたことがないという。中国に住む人が、すべての中国語を漢字で書ける、というわけではない。韓国語が漢字なしでも存在しうるのと同様に、中国語の口語も、漢字に依存せずに存在しうるものであり、それは金石文やいわゆる漢文、白話文にも実に当て字が多いこととも関連することなのだ。
彼女は、立派な研究者になってくれた上に、比較・対照研究でもきっと成果をあげるようになるだろう。プロの通訳は、なかなか言語研究者とはならない。ことばを扱う目的が異なるためだろう。どちらも世の中に必要なのだが、すぐに役立つかどうかの差は目立つ。常識を疑うか、誰も気にしないような(神が宿るとも言われる)微細な点にもスルーせずに目を向けるか。そして対象化の方法、深入り度も問題となる。深く進むほど、あの漢文に由来する語かなどと考え込んで即座に逐一訳してなんていられなくなる。伝達を反射的に行う必要がある通訳も、無論逆に違うところにこだわりをもつことがある。通訳の技術も身についておけば便利なことに間違いはない。