新潟市内の庶民の台所、本朝市場(ほんちょういちば)では、「みょうが」が「妙ガ」と書かれていたそうだ。実は「茗荷」も当て字で、本来の漢字は「荷」で「ジョウカ」と読みも異なっていた。和語の「めか」と混じたもののようだ。八百屋さんは「人肉」(大蒜よりは読みやすいということか。にんにく)や「キャ別」(当て字「茄別」の漢字制限を経た交ぜ書きではなかろうか)など、当て字が好きなようだ。
「ばいがい」と手書きされた紙を見かけた。「貝」の音読みが「バイ」、訓読みが「かい」(連濁して「がい」)であり、重言のようで面白い。重言らしきものは世上に多く、それらが連なるというだけでいちいち目くじらを立てるのも行きすぎると、表現の耳や目への伝わりやすさに逆行してしまう。「ばい」や「貝」だけでは、何か分かりにくく、誤解の元にもなる。このバイがもともとどういう字のことばなのかは、地元の皆さんは意識されていなかった。生活の中で、空気のように溶け込んでいるので当然のことだ。
前日に頂いた、佐渡からのフェリーの中で売っていたという方言手ぬぐいには、
ごてぎ 御大儀からか。
むしん 無心。
だち 埒から。
しょし 笑止から。
ずくなし 術からとも。
など、漢語由来とおぼしいものも含まれている。佐渡ヶ島でも知らない、これとは違うという語や語義があるほか、出身が異なる方はもう分からないと言うものもある。方言だと気付かず、「標準語」だと思い込んでいるものもあるそうで、興味は尽きない。「笑止」(勝事から)は、日本語学でもしばしば取り上げられる当て字だ。
何から何まで気を回してくださる方が、「コ」の一筆書きを、急いでいるときには自分もなさるとのことで、さすが放送大学(漢字の講義では、かなり難しいことも含まれている)でも学んでいらっしゃる「女子大生」だ。「様」は、中学の時に、最後の「く」を左下に折り返して点々を付けたり、「へ」に「ノノ」や「ハート」を添えて文通をなさっていたそうだ 。それは、丁寧にと思ってのことだったが、大人が使うものではないとやめたとのことで、こういう個々の証言はこうした記述されることの少ない生活上の文字を支える意識を探究する上で、とても貴重なものだ。
挙手されたのは4名で、1割に満たない。集団文字だが、近頃は図書館学の講義もパワーポイントで表示するだけになってきたそうで、ノートへの略記法を教わらない学生も増えてきた。会場で、手を挙げてもらう時には、「当てませんから」と言っておく。こちらでは、「かけませんから」という言い方がしっくりくるそうだ。
おいでくださった方々は、専門書までお求めくださる。サインの真似事も機会が増えてきたが、酔わないと字が畏まる。お寄せくださる感想も温かい。お話しした内容を、人に話したくなったとおっしゃってくれた人もいた。ありがたい。私は、意識の底に沈みがちな現実を人々の眼前に汲み上げ、社会全体へとかき回していくのが漢字やことばを専門に学ぶ者として一つの役割だと思っている。研究室や狭い書斎の中で、古人の漢字を史料や文献からすくい上げるのももちろん重要なので続けている。そして街中の今生かされている文字の書かれた素材もまた大切なテキストだ。人々の変わりつつある頭の中もまたかけがいのない貴重なテキストなのだ。人は時代の環境によって変わることをふまえたうえで、現代のこと、心を持った人間のことが分からなくては、まして古人の用いた文字のことを分かるはずがないと思っている。