広島県高田郡甲田町にある糘地(すくもじ)という地名について、「糘」という字は、地元の庄屋が造ったという話が伝えられている。スクモは、関東から西の本州と四国において籾殻を指す方言であり、米にとっては家に喩えることができるためにこのように造られたとされる。それ自身は史実ではないとしても、そうした意識の存在自体に意義を読み取ることができる。識字者であった庄屋は、村民の子供に対しても名付けを頼まれて行うことがあり、その命名に際して『節用集』を繰ったことが川柳などにいくつも詠まれていた。
口承されていた地名をいざ文書に表記する時にも、同様のことが行われたのであろう。当時、ほとんど語釈や文法事項の解説を持たなかった国語辞典に求められた役割は、漢字による表記を確認するためのものであった(今でもそういう傾向があるとの利用者アンケートの集計結果を見たことがある)。漢字は仮名すなわち仮初めの文字に対する真名つまり本当の文字として過大ともなりうる価値を認められてきたのである。
柳田国男は、地名の字(アザ)や小字(アザ)は、もとは口頭で伝えられてきたもので、地図ができてから和尚などと相談して近世に漢字を当てたもので、八割、九割が当て字であり、『康煕字典』で解釈することは適さないと述べている(『地名の研究』)。その通りなのであるが、当て字や造字にも、その時代の意識が込められているものであり、そこには当時の人々の着想の記録としての意義があるはずだ。
この「糘」が、JIS第2水準に採用された理由は、JIS策定当時の『対応分析結果』と呼ばれる行政管理庁の資料によると、1972年の『国土行政区画総覧』に3回現れていたためであった。実際に、当時の『国土行政区画総覧』を調査していったところ、
1929ノ26ページ 岡山県久米郡久米町桑下通称糘山
1935ノ 8ページ 広島県広島市祇園町西山本通称
1977 ページ 広島県高田郡甲田町糘地
が確認できた。山陽地方の限られた地域において、この国字の使用が地域文字となって広まったことがうかがえる。資料によっては、これらの通称が「字(あざ)」と位置づけられていることもある。
やはり国字による「粭島」(すくもじま)は山口にあり、漢字の「(禾+會)」との類似も指摘されるが(『日本人が作った漢字』など)、徳山藩の家老がこの字を当てたという伝承もある。福島県に「粠田」(すくもた・すくもだ)が地名や姓にあるのは、かつてはこの語の分布がより広かった可能性を示す。
鳥取には「(米+皮)」(中国では字義未詳の字)という、これも分かりやすい字が使われた地名が残っていて、標高55メートルの「(米+皮)塚」(すくもづか)は、地図にも載っており、県内で最も低い山として知られている。なお、四国の宿毛市は、米を含まない表記であり、枯れた葦を意味する方言としてのスクモに漢字を当てたものといわれている。
江戸時代に、山陰地方の松江、鳥取藩においては、肥料、飼料、燃料、屋根葺材料などにするための草を刈る採草地(草刈場)を「(土+養)草山」「(土+養)山」と文書で記している。この字で「こやし」「こえ」を表したのである(農林省『日本林制史資料』(1930―1934、朝陽会)、『日本経済史辞典』、『日本史用語大辞典』など)。「(土+養)シ草山」と送り仮名(捨て仮名)を伴うものもあった。
遠く離れた東北では、独特な思想を構築した安藤昌益がその著述の中で、同じ「こやし」としてこの字を用いていた。その字が中央の文献には見当たらない点から見て、同じ時代を生きた人々の間で、空間の差を超えた発想の一致による暗合であった可能性が高い。
ともに漢字の「壌(壤)」や「肥養」(当時はまだない語だったかもしれない)といった熟語が素地となっているとも考えられる。いずれの造字者も、「(サ×禾+毛)」「糞」「肥汁」といった他の漢字による「こやし」の表記を知った上で、土の養分、土を養うものと一目で解せる、より分かりやすく適切なしっくりくる文字を求めて造字に至ったものであろう。
なお、「法(土+養)」で「ホウヨウ」と読まれる江戸時代の仏者名があるが(国文学研究資料館編『古典籍総合目録』(1990、岩波書店)第2巻、第3巻)、これは衝突であろうか。