それでも富山は近くなった。もちろん東京から鉄道での直行のためには国境のトンネルがあり、そこは今でも長い。それを抜けたとたんに視界が開ける。兄が時刻表をめくって、米原やら横川やらを経由して一日仕事で移動した子供のころに比べると、上越新幹線が開通し、だいぶ便利になった。長期の休みになると、満員のタバコで煙い列車に立って行くこともあった。ビニールの容器に入ったお茶は、ペットボトルに席巻されて、もうなくなったのだろろうか。冷凍みかんは、弱く回る扇風機と窓からの風だけが頼りの車内の熱さをいくらか和らげてくれた。
越後湯沢で乗り換える。湿度がすでに高いようで、じっとりしている。はくたか号は満員だが車内は静かだ。大きな深紅の花の髪飾りを付けた母親が、時折立っては赤ちゃんをあやす。海中からの建造物の走る、難所だった親不知を横切る。初め、JTBの方は飛行機を提示してくれたのが分かるほど、時間がかかる。
地元の方だろうか、魚津は「うぉず」、いや「ぅおず」のように話される。魚津では駅に「蜃気楼」の見える町とある。明るかった時には、車窓から「親鸞聖人」ゆかりの地の立て札が見えた。ここはいわゆる真宗王国だ。祖母の葬儀に参列したときには、大阪からこちらのお寺にお勤めをしにきていたお坊さんが来てくれていた。極楽浄土に行ったのだから、と会葬者に塩などは配られない。葬列に白装束という古い写真も見た。葬式では赤飯を食べるとも聞いた。
小さなお膳に味の染みた煮物と、茶色い昆布の巻いたかまぼこなどが整然と並ぶ。青とオレンジのかまぼこは、とりわけ印象深い。大きな鯛を象った原色の細工かまぼこも、重みがあって圧巻だった。女性たちは、台所で談笑しながら食事を取るというのも慣れない光景だったが、今も続いているようだ。黒部のジャンボ西瓜は確かに大きく、真夏に井戸でいつも冷やされていた。夏は意外に熱く、蠅取り紙と蚊取り線香が欠かせず、たしか蚊帳も体験できた(穴が空いていた気がする)。
冬は寒く大雪が降った。北陸本線は、しかし止まったりしない。ラッセル車が見られるかと期待したが、それさえ付けずに走り続けていた。田舎の祖母に、早朝に外に、顔を洗いに行かされたのは、冷水が痛くて辛かった。明け方の炬燵はなかなか温かくならず、室内も朝のうちは寒かった。干し柿は大きくて甘すぎた。肥は田地に蒔かれていたようだ。夕方の五右衛門風呂も慣れないものだった。
昔よく聞いて心に刻まれている駅を通って富山駅に着く。亡くした祖父に、眉毛から何からそっくりな老人を見かけた。
看板に「釣(つり)」姓、新湊から出て来た方ではなかろうか。その地では最多の姓と聞く。「笹」の字は、笹津春日温泉、笹倉温泉を看板で、笹平駅などを観光パンフレットで見た。この辺りでは店名にも目立つ。隣の新潟の方からは、お土産に「笹だんごちまき」まで頂いてしまった。ヨモギの味と色が濃厚で子供もおいしいと食べた。富山では、とら猫のことをヨモギネコと呼ぶそうで、事実、うちで最初に飼われたとら猫も、「よもぎ」と名付け、かわいがられた。
富山駅では、文化圏のためか、交通ルートのためか、大阪や京都への旅行のポスターばかりである。祖父もその昔、大阪を目指して家を出た、と何度も聞かされた。
富山で、白飯を箸で取ったときに、思い出した。幼い頃、上記のとおり冬や夏の休みになるとよく連れて行ってもらっていた富山では、茶碗に盛られたもちっとした米を重たく感じていた気がした。米どころであって、おいしいのだが、ずしっとした箸先が懐かしい。名物の「鱒ずし」の弁当は、同じものだけが丸い容器に収められている。概算では2品目しかない。それを飽きずにひたすら食べ続けるのも、富山人らしく感じられる。私にもここの血が流れている。