吹田(すいた)は、「次田」(すきだ)からできた地名ともいわれ、簡単な字だが、逆の意味のように感じられる「ふいた」と訓読みしてしまって読み間違えるよそ者が出るのも仕方ない。そこでは「勝尾(かつおう)寺(じ)」という看板を見た。元禄時代の俗字を考察した書籍に、漢字表記と読みのずれを説明していたものだ。この辺りで、本場の「タコ焼き」を頂いたところ、蛸が大きい。
鴫野では「継ぎ禁止」とバイクや自転車についての掲示にあった。「北どなり」「置かぬよう」といった掲示の文句もどこか東京とは違う。大阪は、中国や韓国、それも香港やソウルのような熱気と活気を感じさせる。それでいて、山も見え、歴史の厚みもほの見える。
「串カツ」の看板があちこちで目に入る。通天閣、新世界ではそれが居並んでいた。北新地、曾根崎、どれも施設名や地名が相応の時代性を背負い歴史を帯びているせいか力をもっている。玉造のあるのは天王寺区、ネーポンという瓶入りの飲料を売っていたお店のテレビ放送には、2度とも釘付けになったものだ。
そのように食文化の影響で、「串」という字は、西日本での接触頻度のほうが高いと感じられる。これも常用漢字表には2010年に追加された字である。奈良時代から、近畿を中心として文献や文書に使用されてきた。中国でクシを意味した「(串+ノ)」の「|」という画が日本で減らされたもので、国訓だと言われているが、実際には調べていくと中国の仏典にまで遡る可能性が出てきた。
天王寺だったか十三(じゅうそう)だったか、安めのホテルを取ったためか、そこまで行く途中で、すごいとしかことばが出ないようなT字路を横切った。その一角はあまりにも派手な看板が道にはみ出し乱立し、その色はピンクや原色という街区だった。確か「案内所」(いや「紹介所」など?)と大きく書かれた看板も出ていたが、どこに連れて行かれることになるのだろう。東京でも歌舞伎町界隈は仕事などで通ることがあるが、そことも異なる原色のイメージが残っている。呼び込み、客引きだらけのあまりの光景に、珍しく気後れしシャッターも切れず、また記録・保存の価値をその時は感じずに写真を残せなかった。
武田薬品工業の研究所に付設された図書館の乾々斎文庫、杏雨書屋には、古い医学書が所蔵されている。そこにあるという古書を閲覧に行き、近世の医家の個人文字の数々に目を奪われ、複写手続きまでしているとやはり時間がギリギリになってしまう。焦っていることを伝えると、タクシーの運転士が気持ちよく飛ばしてくれて、ぎりぎり新幹線に間に合ってくれた。ちょっとした会話、たとえば箕面の猿の話など、たわいもないことなのだが、運転士さんたちの客を楽しませようとする話術にも、さすが大阪としばしばうならされる。