ロングリー夫人が表音綴字法を実践する間にも、夫エリアスは、新たな著作『American Manual of Phonography』(1853年)を出版しています。この著作は、表音綴字法の応用として、表音速記法をマニュアル化したものでした。この速記法は、24種類の子音を表す直線や曲線に、18種類の母音をあらわす点や短線を付加する、というやり方で、話者の発音をそのまま速記するものでした。子音と母音は「w」に関するものを除いて、表音綴字アルファベットと1対1に対応していました。
ロングリー夫人は、夫エリアスの議会速記や裁判所速記を反訳していく中で、自らも表音速記の腕を上げていきました。さらには、シンシナティや周辺で開催される講演会に出かけていき、速記録を取って、雑誌『Wɛcli Fɷnetic Advɷcet』や『Type of the Times』に掲載しました。ただ、ロングリー夫妻の速記の仕事は、必ずしも多くなかったようです。というのも、この頃、ベン・ピットマン(Benjamin Pitman)という人物が、シンシナティに表音速記専門学校を設立し、速記者を多く輩出し始めたのです。ベン・ピットマンは、兄アイザック(Isaac Pitman)が考案した表音速記法を教授していたのですが、実はロングリー式速記法も、アイザックの表音速記法を独自に改良したものでした。ある意味、ベン・ピットマンの方が本家に近いわけで、なかなかロングリー式速記法は広まらなかったのです。
1855年10月17日、シンシナティのスミス&ニクソン・ホールで開催された第6回NWRC (National Women’s Rights Convention)に、ロングリー夫妻は参加していました。NWRCは、アメリカ女性の権利向上を謳って、1850年10月にマサチューセッツ州ウォーセスターで、第1回大会が開催されました。その後、ウォーセスター、シラキューズ、クリーブランド、フィラデルフィア、と毎年開催されてきて、第6回がシンシナティだったのです。満員のホールで、ルーシー・ストーン(Lucy Stone)がおこなった演説は、非常に衝撃的でした。
物心ついて以来、私はずっと「失望した女性」でした。私が、私の兄弟と共に、知識の源へと向かおうと、辿り着こうとすると、決まってこうたしなめられるのです。「それは、あなたにはふさわしくない。それは女のものじゃない。」その頃、女性の入学を許可している大学は、世界中にたった一つしかなくて、それもブラジルにありました。私の進む道はそこにしかないと思い、行く準備を整えたところ、若いオハイオ州にもう一つ開校しました。アメリカ合衆国で初めて、女性も黒人も、白人男性と共に学ぶ機会を与えてくれた大学でした。
私が、不滅の存在にふさわしい仕事を探そうとした時も、やはり失望におそわれました。全ての、ほとんど全ての雇用が、私に対して門を閉ざしていました、教師と、裁縫師と、家政婦を除いては。教育において、結婚において、宗教において、全てにおいて、失望は女性の運命です。
この失望を、女性たちの胸に、深く深く刻むことが、私の一生の仕事なのです。それは、女性たちが、失望にひれ伏さなくなるその日まで続くのです。私は、全ての女性たちが、歩くショーケースとなる代わりに、流行のかわいい帽子を父親や兄弟にねだる代わりに、女性たちの権利を、彼らに要求してほしいのです。