アメリカ女性参政権運動の闘士であり、全指タイピングの提唱者でもあるロングリー夫人は、1830年8月3日、ロンドンのセント・パンクラスで生まれ、エリザベス・マーガレット・ベイター(Elizabeth Margaret Vater)と名付けられました。2歳の時、ベイター家はイリノイ州テイズウェル郡に入植し、その後、200マイルほど東のシンシナティへと移り住んだようです。父トーマス(Thomas Vater)の影響で、ユートピア主義コミュニティ(Clermont Phalanx)に染まったりしながらも、1847年5月12日、マーガレットは同じシンシナティのエリアス・ロングリー(Elias Longley)と結婚し、ロングリー夫人(Elizabeth Margaret Vater Longley)となりました。マーガレット16歳、エリアス23歳でした。
当時、ユートピア主義や無政府主義が流行っていたシンシナティにおいても、夫のエリアスは、男女平等主義者で表音綴字主義者という、一風変わった存在でした。その思想は、彼の著作『Furst Fɷnetic Rɛdur』(1850年)にも現れています。そもそも、この本のタイトルは、普通の英語綴りで書けば「First Phonetic Reader」(初等表音読本)なのですが、それをあえて(エリアスの考える)発音どおりに綴ると『Furst Fɷnetic Rɛdur』になる、というのです。そのためにエリアスは、ラテン・アルファベット26字からKとQとXを除き、代わりに17字を加えた、40字から成る表音綴字アルファベットを用いました。『Furst Fɷnetic Rɛdur』と『Secund Fɷnetic Rɛdur』(1851年)は、その表音綴字アルファベットを使って書かれた教科書でした。
この表音綴字アルファベット「Fɷnetic Alfɑbet」を使うと、エリアスの名前自体も「Eliɑs Loŋli」と書かなければいけませんし、たとえばジョージ・ワシントンも「Jɵrj Woʃiŋtun」となります。発音どおりに綴ることでアメリカの識字率は向上するはずだ、とエリアスは考えており、それを教科書の形で出版したのです。
ロングリー夫人は、この教科書の最大の実践者でした。初期の頃はシンシナティやその周辺の小学校で、その後はインディアナポリスなどの小学校に出かけていって、表音綴字法を導入した授業をおこないました。ロングリー夫人の取った方法は、まず『Furst Fɷnetic Rɛdur』と『Secund Fɷnetic Rɛdur』で表音綴字を教え、次に表音綴字から普通の英語綴りへの書き換えを教える、というものでした。この方法は、それなりの成功は収めていたものの、オハイオ州全体やインディアナ州全体に広がったりはしなかったようです。