タイプライターに魅せられた男たち・第75回

谷村貞治(15)

筆者:
2013年3月7日

他社と鎬を削りながらも、日本中の遠隔タイプライターを作り続けてきた谷村は、1958年5月、肺膜欠損で倒れます。岩手医大病院に運ばれ、緊急手術で一命は取り留めたものの、長期入院を余儀なくされました。この時、谷村62歳、まだやれることはあるはずだ、と考えたようです。1年後の1959年6月、谷村は、参議院選に岩手から出馬しました。結果は見事、当選。谷村新興製作所の社長を続けながら、参議院議員としての活動を開始します。

谷村の悲願の一つは、岩手県内の鉄道の建設でした。16年前、岩泉から受け入れた学童挺身隊の何人かは、谷村新興製作所で若手技術者となっていました。でも、岩泉には鉄道がなく、帰省も思うに任せません。茂市~小山を結ぶ計画線が、岩泉を通るはずなのですが、2年前に浅内まで完成したものの、そこからは伸びてこないのです。鉄道がないのは、岩泉だけではありません。当時、岩手県内の国鉄は、内陸部を南北に縦貫する東北本線が唯一の幹線で、どこへ行くにも、東北本線をいちいち経由しなければならない構造になっていました。海岸部は、気仙沼~陸前高田~大船渡・釜石~宮古・久慈~種市~八戸がブツ切りになっていて、それぞれがバラバラに、東北本線に繋がっているという状態だったのです。

参議院の逓信委員会や運輸委員会の委員も務め、谷村の議員活動は多忙を極めました。自民党幹事長の益谷秀次や、運輸省・通産省・農林省の担当官を三陸に連れていき、三陸海岸を縦貫する鉄道の必要性を訴えたのです。大船渡~釜石と宮古~久慈に鉄道を建設することで、気仙沼から八戸までの海岸線を結ぶ三陸縦貫鉄道が実現できる、というのが、谷村の考えでした。一方、1961年1月には、電電公社から大谷を引き抜いて、谷村新興製作所の常務取締役技師長に抜擢し、新たな電信機やコンピュータ端末の開発は、大谷にまかせる体制にしました。また、1962年11月6日には、コカ・コーラ傘下のボトラーとして、北斗飲料株式会社を設立しました。そして1966年4月、大船渡~釜石と宮古~久慈を結ぶ鉄道が起工され、三陸縦貫鉄道は、その実現に向けて、大きな一歩を踏み出すことになります。しかし谷村は、三陸縦貫鉄道の開通を見ることなく、1968年4月20日、肺気腫で死去しました。72歳でした。

花巻城址の南東角、鳥谷崎神社には、谷村の銅像が立っています。亡くなる半年ほど前、1967年11月に、谷村の業績を称えるべく建立されたものです。みちのくの電信王、谷村貞治は、今も「電気通信の仕事に活を入れ」るべく、花巻の一角に静かに佇んでいるのです。

鳥谷崎神社の谷村貞治像

鳥谷崎神社の谷村貞治像

(谷村貞治終わり)

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

https://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

編集部から

近代文明の進歩に大きな影響を与えた工業製品であるタイプライター。その改良の歴史をひもとく連載です。毎週木曜日の掲載です。