実はこの頃、シカゴにあるポーター電信学校では、授業にタイプライターを取り入れていました。ポーター電信学校は、あちこちの新聞に広告を掲載しており、あるいはロングリー夫人も、その広告を目にしたことがあったかもしれません。しかし、たとえ新聞広告を見ていたとしても、ロングリー夫人は、内容を気にも留めなかったことでしょう。ロングリー夫人を含め、当時の人たちは誰も、タイプライターという機械がどういうものなのかすら、全く知らなかったのですから。
オハイオ女性参政権協会の次回総会の準備を進めるロングリー夫人のもとに、シカゴのリバモア夫人から連絡が入りました。クリーブランドで開催予定のオハイオ女性参政権協会総会の直後に、とある別の大会を連続開催したい、という提案でした。リバモア夫人は、新たな団体AWSA (American Woman Suffrage Association)を立ち上げようとしていて、その設立大会をクリーブランドで開きたい、と提案してきたのです。リバモア夫人と、NWSA会長のスタントン夫人との仲が、どうもうまくいっていないことは、うすうすロングリー夫人も感じていました。ただ、だからと言って、NWSAとは別に、AWSAという団体を立ち上げるというのは、女性参政権運動を二分してしまい、全体のパワーを削ぐことにもなりかねません。
ロングリー夫人は、クリーブランドのカトラー夫人に打診してみました。もちろん、カトラー夫人のところにも、リバモア夫人から手紙が届いていて、対応に苦慮していたようでした。しかし、オハイオ女性参政権協会が連続開催を断ったところで、リバモア夫人がAWSAを設立するのは止められないだろうし、ならば、あえて連続開催の話に乗ってみた方がいいのではないか、というのが、カトラー夫人とロングリー夫人の結論でした。AWSAの設立がどういう形でおこなわれるにしろ、NWSAのスタントン夫人やアンソニー女史を招くだけ招いてみるべきで、それをいっそ連続開催の条件にすべきだと。
腹を決めたカトラー夫人とロングリー夫人は、リバモア夫人とともに、1869年10月20日付『The New York Times』や23日付『Woman’s Advocate』など各紙に、以下の開催案内を掲載しました。
アメリカ女性参政権協会AWSAの必要性を確信し、また、アメリカ全州を代表する団体としてAWSAを組織すべく、来たる1869年11月24~25日、オハイオ州クリーブランドで開催する代表者会議に、謹んで各州の代表者を招聘する。この会議に参加する代表者は、各州を代表する組織から選出されるものとし、各州に割り当てられた連邦議会の議員定数を上回らないこと。選出された代表者数が、議員定数を下回る場合は、地方組織その他から選出された代表者を加えてもよいが、当該の州の住民であること。なお、各州の代表者以外の参加者は、この会議での投票に数えない。