オハイオ州の女性参政権運動団体を設立するにあたって、最初の総会を成功させるためには、いわゆるビッグネームを招聘すべきだ、とロングリー夫人は考えました。有名な女性運動家をシンシナティに呼んで、女性参政権について演説してもらうのです。ただ、シンシナティだけで、ビッグネームを呼ぶのは無理があります。ロングリー夫人は、シカゴのリバモア夫人に協力を仰ぐことにしました。シカゴとシンシナティで連続開催ということにして、ビッグネームを大都会シカゴの大会に呼んだ後、シンシナティにも来てもらう、という案を考えたのです。リバモア夫人からの返事には「9月15~16日にシンシナティで開催しなさい。スタントン夫人とアンソニー女史と私が出席する予定だ、と宣伝しなさい。きっと総会は成功します。恐れることはありません」とありました。
1869年9月9~10日、リバモア夫人に招かれてシカゴを訪れたロングリー夫人は、女性参政権大会に出席していました。この大会をリバモア夫人は、アメリカ中央部9州(イリノイ州・インディアナ州・アイオワ州・カンザス州・ミシガン州・ミネソタ州・ミズーリ州・オハイオ州・ウィスコンシン州)における女性参政権の、いわば決起大会だとみなしていました。ルーシー・ストーンやアンソニー女史も招かれていて、女性参政権について、それぞれスピーチをおこないました。200人以上の女性運動家たちが集まり、大会は大成功のうちに終了しましたが、しかし、スタントン夫人は、会場の図書館ホールに現れませんでした。
翌週の9月15~16日、ロングリー夫人は、シンシナティのパイクス・ミュージック・ホールで、オハイオ女性参政権協会(Ohio Woman Suffrage Assocation)の設立総会を、開催していました。ロングリー夫人は、オハイオ女性参政権協会の会長に選出されましたが、これを固辞し、カトラー夫人(Hannah Maria Tracy Cutler)が初代会長、ロングリー夫人は副会長となりました。ロングリー夫人のスピーチから、少し引用してみましょう。
ニューヨークのAERA年次大会での経験から、私たちは、数多くを試みるよりは、たった一つのことを成し遂げた方が、遥かに良いということを学びました。そして、シカゴの同胞たちは、その他の利益は全て脇に置き、ただ一つの権利、全ての政治的権利のもととなるただ一つの権利、すなわち、投票する権利、それを勝ち取ることだけを運動の目標と定めました。今日ここに私たちは、オハイオ女性参政権協会を設立するために集まっています。そのただ一つの目標は、文書と演説とを通じて、この国の全ての人々に、連帯の輪と共に広めていかなければいけません。あらゆる適切な手段を通じて、女性参政権運動を推し進め、わが政府を本当の意味で、本当の理想的な意味で、人民の政府としなければいけないのです。
さらに、ルーシー・ストーン、アンソニー女史、リバモア夫人などのビッグネームが、次々にスピーチをおこないました。しかし、スタントン夫人は、シンシナティにも現れませんでした。最終的に、オハイオ州の19の選挙区から一人ずつを、オハイオ女性参政権協会に代表として送る、という動議を全会一致で採択し、設立総会は大成功のうちに幕を閉じました。次回の総会は、会長カトラー夫人の地元クリーブランドでの開催予定となりました。