1869年11月23日、ロングリー夫妻は、クリーブランドのYMCAで開催されたオハイオ女性参政権協会総会に参加していました。この総会には、オハイオ州の19の選挙区のうち、第9選挙区と第13選挙区を除く17の選挙区から代表が出席していました。当時リンウッドに引っ越していたロングリー夫人は、第1選挙区の代表として、この総会に出席していました。夫エリアスは、執行委員会に名を連ねていました。カトラー夫人は第18選挙区の代表、コール夫人は第4選挙区の代表でした。この時点でオハイオ州に割り当てられていた連邦議会議員定数は、上院2名、下院19名だったことから、オハイオ女性参政権協会は、17名の代表者に加え、4名の追加代表を選出し、翌日のAWSAに備えることにしました。
1869年11月24日、ロングリー夫妻は、クリーブランドのケース・ホールで開催されたAWSAの設立大会に参加していました。16の州から80名の代表が出席していて、オハイオ州とニュージャージー州は、それぞれ21名と7名で定数いっぱいでしたが、他の州は定数に足りませんでした。ロングリー夫人は、カトラー夫人やコール夫人と共に、オハイオ州の代表を務めました。リバモア夫人は、もちろん、イリノイ州の代表の一人でした。インディアナ州の代表には、ウェイ女史とスワンク夫人がいました。ニュージャージー州の代表には、ルーシー・ストーンと、その夫のブラックウェル(Henry Browne Blackwell)がいました。アンソニー女史も参加していましたが、どの州の代表でもありませんでした。スタントン夫人は、会場に姿を見せませんでした。
たくさんのスピーチと、渦巻く熱狂の中で、AWSAは設立されました。AWSAの初代会長には、ビーチャー(Henry Ward Beecher)が選ばれました。ロングリー夫人は、副会長の一人となりました。そして、25日夕方の最終セッションで、スピーチを求められたアンソニー女史は、しかし、こう述べました。
私たちの置かれている状況は、希望に満ちていて前途有望です。これらの独立した別々の運動は、私たちが生きている証拠です。このAWSAという団体が、今後も成功を収めることをお祈り申し上げるとともに、AWSAに代表を送った16の州にも、代表を送らずに参加だけした5つの州にも、参加しなかった16の州にも、お願い申し上げたいことがあるのです。各州に戻ったら、まずは州の女性参政権運動団体を、しっかり組織してほしいのです。そして、その団体において、クリーブランドのAWSAに参加するのか、ニューヨークのNWSAに参加するのか、決めてほしいのです。女性参政権を獲得するために、アメリカ合衆国憲法修正第16条を獲得するために。
この瞬間、アメリカの女性参政権運動は、NWSAとAWSAの2つに割れてしまったのです。そして、アメリカの女性参政権は、次の憲法修正第16条では実現しませんでした。