宮中で天皇が暮らす殿舎は清涼殿(せいりょうでん)と呼ばれ、公的儀式を行う紫宸殿(ししんでん)の西側に位置していました。清涼殿の北端には上御局(うえのみつぼね)と呼ばれる部屋があり、そこは後宮に暮らす天皇妃たちが天皇に召された際に使用する控室でした。
この清涼殿の上御局を舞台にした章段があります。正暦5年、定子18歳の春、清少納言の初宮仕えから半年後の時期です。清涼殿の丑寅(うしとら)の隅には手長足長という怪物の障子が据えられていました。丑寅は陰陽道(おんみょうどう)では鬼門とされる東北の方角で、そこから鬼が侵入するのを阻止するために不気味な妖怪の絵が障子に描かれていたのです。局の出入り口の戸が開いていると手長足長の絵がいつも目に入るので、女房たちは憎み笑ったと書かれています。
その部屋からは、簀子(すのこ=縁側)に置かれた青い大瓶も見えました。それには、5尺(1メートル65センチ)程の桜の大枝が何本も差し込まれ、満開の花が欄干の外まで咲きこぼれていました。現代でいうと、大瓶に植物を枝ごと差し込んだ大胆な生け花の趣向です。この桜がどんな意味を持っていたのか、またこれを設置したのは誰なのか。そのヒントは次に展開される話の中で明らかになります。
さて、定子の控室を兄の大納言伊周(これちか)が訪れます。彼は桜襲(さくらがさね)の上着に身を包んで華やかに登場しますが、部屋の中に天皇がいらっしゃることに気付き、簀子に座ります。そのうち食事の時間になり別室に移動した天皇は、食事が終わるやいなや、まだ片づけも始まらないうちに定子の許に戻ります。14歳の若い天皇が4歳年上の中宮を姉のように慕っていた様子が想像されます。
そして定子もそれに応えるように、天皇の御前で女房たちの教養テストを始めるのです。定子が最初に出した課題は、「今、この場で思いつく古歌をすぐさま答えよ」というものでした。突然の出題に女房たちは緊張し、普段なら思い浮かぶ歌も出てこなくて、頭の中は真っ白、反対に顔はのぼせて赤くなっていきます。
色紙が回ってきた時、清少納言はまず、御簾の外に控えている伊周にそれを差し出して、「これはいかが(これはどういたしましょうか)」と打診し、伊周から差し戻されています。その後で清少納言が答えたのは次の歌でした。
年経ればよはひは老いぬしかはあれど君をし見れば物思ひもなし
これは、『古今集』の太政大臣良房の歌を拝借し、第4句の「花をし見れば」を一部改変したものです。良房の歌が詠まれた場面は、歌の詞書きに、「染殿の后のお前に、花瓶に桜の花をささせたまへるを見てよめる」と説明されています。「染殿の后」は文徳天皇女御明子で、良房の娘です。良房は藤原氏で初めて摂政となり、摂関政治体制の基を築いた人物でした。
摂関政治の仕組みは、娘を天皇后として皇子を生ませ、その後天皇の祖父となって政権を掌握することです。これは良房が、天皇后となった娘を見て桜の花にたとえ、自分は年をとってしまったが、ようやく思いが叶うと満足して詠んだ歌でした。
すなわち清涼殿の上御局の簀子に置かれた桜の大瓶は、この歌の背景を演出していたのです。『枕草子』の場に良房の歌を当てはめるなら、「花」は中宮定子を指すことになります。そして、この歌を詠むべき人物は定子の父関白道隆でした。
清少納言が先に詠歌を伊周に打診したのは、その場にいなかった道隆のかわりにこの歌を定子の兄に詠んでもらおうと思ったからではないでしょうか。ところが伊周に断られ、自分で詠まざるをえなくなりました。もし、清少納言がこの歌をそのまま引いたとしたら、自らが関白の立場に立つという無礼なことになってしまいます。そこで、中宮定子をたとえる「花」を「君」に変え、女房としての立場を示したのでした。
清少納言が答えた良房の和歌は、清涼殿に据えられた桜の大瓶の意図、すなわち定子を中宮として皇室に入れた関白道隆の威光を暗示していたのです。
では、この桜を設置したのは誰か。当然ながら定子も伊周も承知の趣向と思われますが、最も有力な参謀者はこの場を外していた関白道隆ではなかったかと私は思います。なぜなら、『枕草子』の日記的章段には、道隆が企画したもう一つの桜の話があるからです。