『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて

(12) 二条宮の桜

2009年9月29日

『枕草子』の日記的章段には印象的な桜が二つ描かれていますが、その一つが前回お話しした清涼殿の桜です。それは関白道隆の企画した趣向であったろうということを述べました。発案者は教養ある正妻高階貴子だった可能性も高いと考えられますが、それは内助の功ということにして、道隆が企画したもう一つの桜についてお話しておこうと思います。

正暦5年春、関白道隆は父兼家の邸宅だった法興院の中に積善寺を建立し、一切経を奉納する法会を大々的に行いました。中宮定子もそれに参加するために、内裏から里邸の二条宮に退出することになります。新造された二条宮は白く美しくて、寝殿の階段脇には、一丈(約3.3メートル)程の満開の桜の木が植えられていました。清少納言が、「随分早く咲いたものね。まだ梅の季節なのに」と思ってよく見ると、それは季節を先取りして設置された作り物の桜だったのです。

桜の木のレプリカを丸ごと作り上げるという趣向を考えたのは、定子の父の道隆でした。しかし、そこは作り物の桜、露にあたり、日に当たるごとに色あせしぼんでいきます。夜に雨が降った日の早朝、見るも無惨な状態になった桜を、道隆の御殿の方から従者たちが沢山やって来て、あっという間に引き倒して持ち去って行きました。道隆からの指令は、まだ暗いうちに誰にも見つからないように、ということだったらしいのですが、清少納言に見つけられてしまいます。

他の人々は起きてから桜の無いことに気付き、定子も道隆の仕業と推測しますが、「春の風がしたことでしょう」としらばくれる清少納言。その後、訪れた道隆とも、消えた桜を巡って応酬が繰り広げられます。

関白道隆が生前催した最後の大々的な行事が積善寺供養です。それを扱った、枕草子中でも特別に長い章段の最初の場面に描かれるのが、二条宮に据えられた桜の木です。これは関白としての道隆の権威と経済力を風雅な趣向として示したものであり、そんな桜だからこそ、惨めな姿を人前に晒すわけにはいかなかったのでしょう。

歴史上の記録を追ってみると、この時期の道隆は徐々に自病の糖尿病が進行し、積善寺供養の半年後の正暦5年末には政務を執ることもままならなくなっていました。そのため度々関白辞退を申し出て、天皇に差し戻されています。それから半年後の長徳元年4月に薨去という事態から推し量ると、最後の年の桜はもう十分に見ることができなかったのではないでしょうか。病の床に伏す道隆の脳裡には、自らが企画して娘に贈った清涼殿の桜と二条宮の桜の情景が浮かんでいたかもしれません。

清少納言の時代に和歌文学の模範とされた『古今集』は、時の移ろいを敏感にとらえる歌風で、散りゆく桜の花を数多く詠みました。しかし、『枕草子』の桜は華やかで美しく、そして決して散り落ちないことになっています。

二条宮に設置された造花の桜の木も、清涼殿に設置された大瓶の桜の枝も、中関白家の世界が創り上げた桜です。『枕草子』が記し留めたのは、今は盛りと咲き誇る桜の時間のみであり、それは、中宮定子と中関白家が栄華の最中にいた一時と重なるのです。

歴史上、時間の推移と共に権力の中心からはかなく散った一族。それを連想するような桜の散り際から目をふさぎ、あくまで咲き誇った満開の桜を描くのが『枕草子』という作品なのです。

筆者プロフィール

赤間恵都子 ( あかま・えつこ)

十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「枕草子研究の動向と展望―年時考証研究の視座から―」(『十文字学園女子短期大学研究紀要』2003年12月)、「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)など。

『枕草子 日記的章段の研究』

編集部から

このたび刊行いたしました『枕草子日記的章段の研究』は、『枕草子』の「日記的章段」に着目して、史実と対照させ丁寧に分析、そこから清少納言の主体的な執筆意志をとらえるとともに、成立時期を新たに提案した『枕草子』研究者必読の一冊です。

著者の赤間恵都子先生に執筆にいたる経緯や、背景となった一条天皇の時代などについて連載していただきます。