モノが語る明治教育維新

第23回―双六から見えてくる東京小学校事情 (1)

2018年4月10日

今回から連載でご紹介するのは、開化絵で有名な三代歌川広重の作品「東京小学校教授双六」です。

文明開化は、身の回りの景色や文物を急速に西洋風にしていきましたが、その一瞬を見事に切り取って錦絵にしたものが開化絵です。この錦絵が描かれた明治10年前後の東京では、耳目を集めるような小学校の開校があいつぎ、報道マンの役目も担った当時の浮世絵師としての広重の血もさぞ騒いだことでしょう。振り出しの「師範学校」から上がりの「華族学校」まで、東京府内にある43もの小学校が、サイコロを振って出た目の数だけ進む回り双六(すごろく)の形を借りて紹介されています。

「東京」と題目にはありますが、当時の行政区画は「大区小区制」と呼ばれるもので、現在の23区にあたる範囲が11大区103小区(各大区がそれぞれいくつかの小区に分けられている)に編成されていました。錦絵で紹介されている学校は、その中でも皇居に近い第1大区から第6大区までの、今の千代田区(9校)、中央区(10校)、港区(5校)、台東区(4校)、江東区(3校)、墨田区(5校)、新宿区(4校)、文京区(3校)の8区内に創設されたものばかりです。振り出しの「師範学校」は、神田宮本町、現在の千代田区外神田に明治6年1月に創設された官立師範学校の付属小学校のことで、いわば教師を目指す学生のための練習学校です。絵図中、唯一の外国人と思われる洋装の女性が描かれているところが、欧米式の教授法を学ぶ学校の特徴を表しています。

ところで、当初、東京の公立小学校の設置は他の府県に比べ出遅れたといわれています。これは、「私学家塾開業ノ者学舎大凡千五百ヶ所」というように寺子屋や私塾などが東京には多く存在しており、これらの者に講習会を開いて新しい授業法を伝授し、私立学校などの名称を与え、活用すればいいとしたからです。政府のお膝元である東京は国のかじ取りに気を取られ、学校建設にあまり熱心ではなかったともいえます。明治6年12月までの段階で公立校はたった29校しかありませんでした。が、4年後の明治10年の調査では公立校は142校に増えています。つまり、錦絵が描かれたこの頃は、爆発的な小学校建設ラッシュだったのです。そして、何よりもこの絵を描かせた理由は、明治10年にひときわ豪華な校舎が神田錦町に完成した「華族学校」の開校にあったことは、間違いないでしょう。

ひとつひとつのコマを細かく見ることで、面白い発見があります。例えば、学校名がナンバリングで呼称された時代、その第1番であった第一大学区第一中学区第一番小学の「坂本学校」は現在の中央区日本橋兜町に明治6年に開校しましたが、国立第一銀行間近の、いわば近代的企業の発生地にありました。そんな場所柄を示しているのが手前左に描かれた白い柱です。これは電信線を引いた電信柱です。近くに開局した日本橋電信局の線かと思われますが、見落としそうになる思わぬところに文明開化の面白い情報が隠されています。

次回からは学校沿革史や当時の新聞記事なども参考にしつつ、明治10年頃に東京にあった小学校の様子をつぶさに見ていきたいと思います。

筆者プロフィール

唐澤 るり子 ( からさわ・るりこ)

唐澤富太郎三女
昭和30年生まれ 日本女子大学卒業後、出版社勤務。
平成5年唐澤博物館設立に携わり、現在館長
唐澤博物館ホームページ:http://karasawamuseum.com/
唐澤富太郎については第1回記事へ。

※右の書影は唐澤富太郎著書の一つ『図説 近代百年の教育』(日本図書センター 2001(復刊))

『図説 近代百年の教育』

編集部から

東京・練馬区の住宅街にたたずむ、唐澤博物館。教育学・教育史研究家の唐澤富太郎が集めた実物資料を展示する私設博物館です。本連載では、富太郎先生の娘であり館長でもある唐澤るり子さんに、膨大なコレクションの中から毎回数点をピックアップしてご紹介いただきます。「モノ」を通じて見えてくる、草創期の日本の教育、学校、そして子どもたちの姿とは。
更新は毎月第二火曜日の予定です。