文部省学監のD. モルレーが東京府下の小学校視察を終えて提出した報告書『学事巡視功程』(明治11年。以下、「報告書」)に関しては第25回で触れましたが、この中で教室や校具に関しても、教育事務のご意見番として先見性のある、示唆に富んだ内容を記しています。
「教室ハ授業ニ必要ナル物品即チ黒板地図地球儀教員ノ机卓等ト書籍及ヒ筆紙等ヲ蓄蔵スヘキ架筐並ニ実物ヲ教示スヘキ標本等ヲ備フルニ足ルヘキ余地アラシメン事ヲ要ス」
このように教室に準備すべき教具と校具は何であるかを具体的に述べ、そのために必要な教室の広さは生徒一人につき半坪(40人クラスなら20坪)だとも記しています。実際の広さは分かりませんが、この理想的な教室に近いとみられるのが、明治8年小川町(現・千代田区小川町)に開校した「小川学校」の教室風景です。
壁には地図、棚には地球儀や書物、丸められた掛図が並び、教員の机と椅子は当時珍しかった舶来品のようです。新教育にふさわしい目新しい物品がここかしこに描かれています。洋装の若い教員は、初代校長である籾山鈞(もみやま・きん)と思われますが、彼には後年『有益鳥類図譜』などの著作があるところをみると、時代の先端を行く学識豊かな人物だったようです。
「小川学校」の絵図に描かれていない黒板については、報告書に「各教室ニ欠ク可カラサル要器ナリ」と、近代的な教授法には不可欠なものと記されています。そして、大小2枚の黒板を教室の壁に掛け、教授用に教員が活用するもののほかに、小さい方の一枚は生徒が算術の計算や地図を描くなど学習用にも用いるようにとあります。黒板の質や値段にも言及しており、板は肌理(きめ)の粗雑ならざる良材を用い、黒漆か黒墨で外面を幾回も塗りつぶしたものがよく、価格は「長サ一間(=約180センチ)広サ半間(=約90センチ)」のものが東京府下で1円35銭であると記しています。教員の給与が5円から25円であったことからすると、さほど値が張るものではなかったようです。
双六の絵図にはスタンド式と壁掛け式の2種類の黒板が描かれています。
本材木町(現・中央区日本橋)の「宝田学校」(明治6年開校)では、紋付き袴姿の教員が黒板を使い授業を行っていますが、スタンド式の黒板の裏を大きく見せるという独創的な構図をとっています。黒板を支える足がかなりがっしりとした木材であったことが見て取れます。
湯島新花町(現・文京区湯島)の「湯島学校」は、明治9年に木造平屋の新校舎が落成しました。9つある教室の一室では、壁掛け式の黒板に教員が何やら難しげな文字を書き、腰掛に座っている生徒が手を挙げてそれに応えています。黒板の掛ける位置を、報告書では「板床ヲ距ルコト二尺(=約60センチ)ニシテ其高サ四尺(=約120センチ)或ハ五尺(=約150センチ)ヲ以テ適度トス」としています。一読しただけでは分かりづらいですが、床上60センチの位置に黒板を掛けるならば、黒板の上端が床から120センチから150センチの位置になるようにするのが適切であると言っているのでしょう。それにしても、当時の黒板はずいぶん小ぶりだったのですね。
深川亀住町(現・江東区深川)の「村松学校」(明治10年に「明治学校」と改称)では、書取の授業に壁掛け式の黒板を用いていますが、ここで気になるのは生徒の姿勢の悪さです。低い腰掛に、ほぼ同じ高さの机では、このように猫背になるのも当然です。報告書には校具の中で「第一ニ注意スヘキモノハ即チ机席ナリ」とあり、軟弱な身体の子どもを体形に合わない机につかせることは背骨や胸膈、四肢に種々の症状を引き起こし、大害を与えることになると警告しています。
西洋の教室を真似て「涼み台をベンチに」[注1]流用するなどしたものの、生徒の健康を考えた体格に見合う机と椅子が準備できるまでには、まだ10年以上の歳月が必要でした。
*
- 明治6年に常盤学校に入学した星野天地の回想から。
* * *
◆画像の無断利用を固く禁じます。