登校すると教室に直行する現在とは違い、当時は生徒控所なる部屋が設けられ、生徒はそこで教員の迎えを待つのが決まりでした。明治12年に東京府が刊行した『学校読本 小学生徒心得』(以下、『生徒心得』)には、「第七条 学校に至れば先(まず)控所に入り行厨(こうちゅう=お弁当)を我座席に置き教師の差図を待ちて教場に入るべし」とあります。教室へは授業の10分ほど前に教員が生徒控所に迎えに行き、生徒一同を並ばせたうえで向かうようにと定められているのですが、その並んで歩く様子を絵にしたのが一ツ木町(現・港区赤坂5丁目)の「赤坂学校」です。
教員向けに書かれた教授書の中には、「一二三四」の号令に合わせて規律よく歩かせるようにと書かれているものもありますが、この絵を見る限り、友達と談笑するなど、楽しげで自由な雰囲気が漂っています。「生徒教場ニ進ム」の詞書(ことばがき)の上には教室であることを示す「教場」の額が掛けられています。
伝馬町3丁目(現・新宿区四谷3丁目)の「四ツ谷学校」でも、教員に見守られながら生徒が二列になり歩いていますが、詞書に「体操場進ム」とあるように、教室から体操場(遊歩場ともいう)へ向かうにも、このように並んで移動させていたようです。
体操場は、「第十七条第一 課業畢(おわ)る毎に体操場に出て運動をなすべし」(『生徒心得』)とあるように、教場での授業が終わるごとに運動をしに行くわけですから、今なら休み時間に校庭に遊びに出るところ、と捉えた方が近いのかもしれません。
また、第十六条には、「休息中、教員の許可なく教場に入るべからず」とあります。つまり、当時は授業時間以外に生徒が教室にいることは、許されないことだったのです。お弁当は控室でいただき、待ち時間や休み時間は控室や体操場で過ごし、「教場」という名が示すように、教室は勉強を「教える場」以外の何ものでもなかったのです。
その教場で掛図を用いて授業をしているのが、築地3丁目(現・中央区築地)の「築地学校」と塩町(現・中央区新川)の「霊岸島学校」です。
ともに下等小学第八級のクラスとみられますが、それぞれ連語図で「読物」を、加算九九図で「算術」の教科を教えています。
西久保巴町(現・港区虎ノ門)の「鞆絵学校」は、雑誌『教育新誌』に「東京府下に冠たる芝の鞆絵学校」(明治10年6月6日)と紹介されるほど、公立学校の中でも際立った存在でした(『新聞集成明治編年史』)。記事によると「東京師範学校ノ教師吉川何某」が校務を司るようになったことで、地元住民が学校に理解を示すようになり、競って学費を出すようになったとあります。教科も充実し、裁縫や画図(がと=絵を描くこと)の時間もありました。
絵図では、その吉川先生らしき人物が、「問答」の時間に半球図らしき地図を鞭(むち)で指し示しながら授業をしています。実は生徒とのQ & A方式で進める「問答」は、教員の学識の深さや教える技術の力量が最も問われるもので、にわか教員が多かったこの時代、教授法が分からず戸惑う先生が多かった教科です。その中でも、さすが師範学校で正式に教授法を学んだ吉川先生だけにその姿は堂々としています。身を乗り出して聞く生徒の様子にもこの授業の質の高さが表れています。
東松下町(現・千代田区神田東松下町)の「桜池学校」では、「復読」と呼ばれる教科の様子を描いています。掛図や問答が近代的教授法であったのに比べ、「復読」は藩校などで用いられた伝統的な学習方法であり、「読書百遍意おのずから通ず」の精神を受け継ぎ、初学者なら暗唱できるようになるまで掛図や教科書を読みこなしました。生徒同士の競争意識を上手く利用した集団学習らしく、絵図からは、3人の生徒が教員を前に緊張した面持ちではありますが、きりっとしたいい表情で授業に臨んでいる姿が見て取れます。
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