モノが語る明治教育維新

第34回―双六から見えてくる東京小学校事情 (12)

2019年3月12日

『学制』(明治5年)に記された下等小学教科の14番目には、「体操」とあります。ただ、西洋の教育思想が導入され心身健康のために必要な科目として認識されてはいたものの、この頃はまだ指導する適任者もなく、体操の仕方を図解した絵図を参考にしつつ、限られた学校だけで実施されていました。しかも、前回触れたように授業と授業の間に行われるものであり、正課ではありませんでした。いわば、少し長めの休み時間に勉強で疲れた心身をいやすためのもの、と捉えた方が実態に近いようです。

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市ヶ谷加賀町(現・新宿区市谷加賀町)の「吉井学校」では、体操の時間に洋装の教員が生徒を整列させようとしています。この整列の仕方については、教授書に下記の如く書かれています。

「丈ひくき者を前列に順次を正し 二列或は三列に編成し 教師は其面前に立ち『何番右へ寄れ』或は『左へ寄れ』等一々号令を下し 其前後の距離は両手を前に伸し 其前に居る者に触れず 左右の距離も其両手を左右に開き 左右に相触ざるを度とす」(『改正小学教授方法』明治9年)

要は背の低い順に並ばせ、手足が前後左右となりの人とぶつからないように留意するのであり、今と変わりがありません。

当時は器具を用いない徒手体操が主流で、頭操・手操・体操・脚操と四つの部位に分け、それぞれに合わせた運動の仕方を指導しました。例えば頭操では、頭を前後や左右に動かし、手操は両腕を交互に屈曲させたり、前に突き出したりし、体操では腰を手に当てて直立の姿勢から上半身を前屈したり左右に曲げ伸ばしたりします。また、脚操では片足立ちとなり、上げた足の膝から下を前後に屈伸させたりしました。

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駒込西片町(現・文京区西片)の「誠之(せいし)学校」では、棒を用いた体操を行っていますが、背景にはブランコも描かれています。「誠之学校」は人材育成に力を注いだ幕末期の老中・阿部正弘が藩主だった備後福山藩の江戸藩邸の跡地にあり、藩校誠之館の精神を継ぐ学校として、当主の阿部正桓(まさたけ)が全面協力してできた学校です。阿部家からは器具新調費として200円(現在の貨幣価値で約500万円)が寄付され、体操の器具もこのように整っていたのでしょう。

さてこの棒体操、どのようなものだったのでしょう。『小学入門教授方法』(明治8年)には右の男児の体操は次のように解説されています。

「両の手に杖を持て左の足を杖を越さしめ 又右の足も杖を越さし 又左の足をぬきて杖を越へ跡へ戻し 又右の足も同様にする」

教授書には杖とありますが、5尺(約150センチメートル)ばかりの棒を用いたようです。徒手体操もそうですが、こうした単純な動きを数回繰り返すだけの体操は、子どもにとっても面白みのないもののようでした。明治7年「松前学校」に入学した評論家・内田魯庵(ろあん)は、当時の体操について下記のように回想しています。

「其頃は体操が置かれたばかりで私もお一ツ二を教はったがダムベルも球竿も無く、徒手運動ばかりで生徒も興味が乗らず教師も重きを置かなかった。体操などは怠けても先生にも父兄にも決して叱られないで、マジメに体操なぞをしていると先生からも父兄からも却て笑はれ戒められたりしたもんだ」(「明治十年前後の小学校」, 『太陽』第33巻8号増刊号)

ダムベル(ダンベルのこと)や球竿(きゅうかん)というのは、これより少し後に体操伝習所の教師として招聘(しょうへい)されたG. A. リーランドが母国のアメリカから持ちこんだ体操用具です。明治期にはこれらを使った体操が全国的に行われたのですが、公立の小学校に普及するまでには明治10年代後半まで待たなければなりませんでした。それまでは、魯庵が語ったように生徒にとっては興味が持てず、周りの大人からも軽んじられていたのが体操の実情です。

教授書の中で棒の他に器具を用いた体操として紹介されているのが、「不落離児(ぶらりこ)」です。吊るされた二重の縄にぶら下がって体を揺り動かしたり、その縄にブランコのように腰掛け、足を曲げ伸ばしして前後に漕いだりなどするように指導されています。「不落離児」は、誤って落ちないようにとの願いをこめ作られた「ブランコ」の当て字と思われますが、この「不落離児」に棒の腰掛を取り付け、風を切って漕いでいるのが小石川表町(現・文京区小石川)の「礫川(れきせん)学校」の子どもです。

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教科というより、自由闊達な遊びの時間といった風ですね。よく見ると着物を着た子どもはナントお行儀よく正座をして漕いでいます。散切り頭からして男児なのでしょうが、こんな乗り方もしていたのだなと面白い発見でした。

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筆者プロフィール

唐澤 るり子 ( からさわ・るりこ)

唐澤富太郎三女 昭和30年生まれ 日本女子大学卒業後、出版社勤務。 平成5年唐澤博物館設立に携わり、現在館長 唐澤博物館ホームページ:http://karasawamuseum.com/ 唐澤富太郎については第1回記事へ。 ※右の書影は唐澤富太郎著書の一つ『図説 近代百年の教育』(日本図書センター 2001(復刊))

『図説 近代百年の教育』

編集部から

東京・練馬区の住宅街にたたずむ、唐澤博物館。教育学・教育史研究家の唐澤富太郎が集めた実物資料を展示する私設博物館です。本連載では、富太郎先生の娘であり館長でもある唐澤るり子さんに、膨大なコレクションの中から毎回数点をピックアップしてご紹介いただきます。「モノ」を通じて見えてくる、草創期の日本の教育、学校、そして子どもたちの姿とは。
更新は毎月第二火曜日の予定です。