モノが語る明治教育維新

第36回―双六から見えてくる東京小学校事情 (14)

2019年5月14日

四谷尾張町(現・新宿区四谷1丁目)の旧広瀬藩敷地に開校した「広瀬学校」の絵図では、頭にかんざしを挿し晴れ着に身を包んだ娘たちがのどかにお茶しているように見受けられます。

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しかし実際は「ここへくれば大試験」と詞書にあるように、過酷な試験の合間の様子を描いているのです。

大試験とは、年2回行われる定期大試験と卒業大試験のこと。校内で行われる小試験とは違い、異なる学校からの受験生が一堂に会して行われました。これは、草創期の学校では教育内容のレベルがまちまちなため、合否の判定に差をなくす上でも東京府全体で試験を行う必要があったからなのです。この時は、「広瀬学校」が試験会場の一つに指定されたのでしょう。

試験はとにかく厳密で、「小学試験規則」(『東京府年報』明治8年)には東京府の役人や学区取締、師範学校教師などが必ず立ち会うようにと定めてあります。明治9年に東京府庁で行われた大試験には三条実美太政大臣をはじめ、政府のお歴々や華族も臨席したと東京曙新聞が伝えていますから、世間からも注目されていたことがうかがいしれます。

受ける側の子どもからすれば、ただでさえ気が張るのに、普段は接することのないようなお偉方に見守られながらの試験です。「気の弱いものは怖気でぶるぶる震えていた」といった証言があるほど、緊張を強いられるものでした。とはいえ、盛装しての外出は子ども心にも嬉しく、周囲に注目もされ、どこか晴れがましい場でもあったことが伝わってくる女児の表情です。

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麻布宮村町(現・港区元麻布)の「南山学校」では、「南山」と校名を記した標旗が風にそよいでいます。この学校には、明治10年6月に行われた前期卒業大試験の結果を記した報告書が保管されているとのこと(学校沿革史『南山』第7号, 昭和37年)。「東京府公立校上下等小学校卒業大試験優劣表」と名付けられたもので、参加校と及第者全員の氏名まで記されており、これによれば試験に参加した学校は34校、上等卒業者は1名、下等卒業者は215名、落第は20名でした。明治9年12月に開校した「南山学校」からは満11歳11か月の花沢少年が、卒業生としてただ一人及第したとのことです。

つまり、明治10年前期の卒業大試験を受験した東京府の生徒は236名で、その1割弱の20名が落第したわけです。この比率を意外と低いと思われるかもしれませんが、卒業大試験を受験できるまでに多くの生徒がふるい落とされているわけで、母集団を優等生の集まりとみればやはり厳しい数字といえるでしょう。上等科に限ってみれば、わずか1名が及第、後期は0人でしたので、いかに小学全科を卒業することが難しかったかがわかります。

進級のかかった定期大試験では、及第者を有賞と無賞とに分けて発表しました。「広瀬学校」の詞書に「景物(賞品のこと)をもらうべし」とあるのはこのことでしょう。「東京府年報」によれば、明治10年後期の定期大試験の受験者数は1万3793名で、有賞及第生が6277名、無賞及第生が6885名、落第生が631名とあります。及第生の約半分がご褒美をもらえたわけですが、この賞も甲乙丙の3等に分かれていました。賞品としては、書籍や石盤、筆墨などが授与されました。

こういった誉れの一方、落第した子どもにとってはその場で泣き出してしまうなど、つらい試練となりました。卒業試験に落第し、ついにはお堀に身を投げて死んでしまった少女がいたことを、安井てつ(明治3年生まれ・東京女子大学第2代学長)が雑誌『少女の友』に寄稿した「わが少女の日」の中で触れています。その少女は試験会場で偶然隣り合わせに座った子で、試験に必要な用紙を持っていなかったてつに自分のぶんを分けてくれるような親切な子だったそうです。後日、新聞で事件を知り、気の毒に思って泣いてしまい、大人になってからもお堀のそばを歩くたびにその時のショックがよみがえるほどだった、と記しています。

新時代の担い手と期待され、小学生のころから度重なる受験競争の渦に巻き込まれていった子どもたち、その心持は実のところいかようなものだったのでしょうか。

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筆者プロフィール

唐澤 るり子 ( からさわ・るりこ)

唐澤富太郎三女 昭和30年生まれ 日本女子大学卒業後、出版社勤務。 平成5年唐澤博物館設立に携わり、現在館長 唐澤博物館ホームページ:http://karasawamuseum.com/ 唐澤富太郎については第1回記事へ。 ※右の書影は唐澤富太郎著書の一つ『図説 近代百年の教育』(日本図書センター 2001(復刊))

『図説 近代百年の教育』

編集部から

東京・練馬区の住宅街にたたずむ、唐澤博物館。教育学・教育史研究家の唐澤富太郎が集めた実物資料を展示する私設博物館です。本連載では、富太郎先生の娘であり館長でもある唐澤るり子さんに、膨大なコレクションの中から毎回数点をピックアップしてご紹介いただきます。「モノ」を通じて見えてくる、草創期の日本の教育、学校、そして子どもたちの姿とは。
更新は毎月第二火曜日の予定です。