モノが語る明治教育維新

第37回―双六から見えてくる東京小学校事情 (15)

2019年6月11日

双六に描かれた東京府下の43の小学校、その最後にご紹介するのが明治10年神田錦町(現・千代田区神田錦町2丁目9番地)に開校した「華族学校」です。

華族とは、明治2年に旧来の公卿、諸侯に対して新しく設けた族称のこと。身分としては皇族の下、士族(武士の家系の人々)の上にあたります。この学校が開校するまでは、公家や大名の子弟は公立や私立学校に通い、士族や平民(士族の下、人口の9割以上を占める)と同じ腰掛に並んで学んでいました。

未だ封建制度の気風が色濃く残るこの時代に、思いがけず公家や殿様の子どもと一緒に学ぶこととなった子どもらの心中はどのようなものだったのでしょう。「松前学校」で、嵯峨侯爵や松前子爵と共に学んだ経験のある内田魯庵は、「(松前子爵は)ウッカリ御異見でも申上げたら直ぐお手討になりそうな」若様だったといいますし、「其上にお供の御家来が始終御傍を離れなかったから教師も別扱ひで腫物に触る塩梅だった」と、教師までが華族の子弟を扱いかねている様子を回顧録に記しています(「明治十年前後の小学校」、『太陽』第33巻8号増刊号)。いくら開明の風が吹き四民平等が叫ばれても、少し前まで若様と崇(あが)めていた子どもと一緒に学ぶことには、いろいろ気づまりな点も多かったようです。「が、幾何もなく学習院が出来ると同時に若様達は何れも転校されて了った」とのことですから、それも「華族学校」開校までの短い間のことでした。

「華族学校」は、華族の親睦団体である華族会館によって設立されました。華族の子弟の就学を奨励する目的で建学し経営する学校という意味で名づけられ、私学開業願にもこの名前で提出されています。ただ、開校式当日、親臨された天皇から、公家の教育機関として幕末に京都に創設された学問所「学習院」の志を受け継ぎ、「本校ヲ名ケテ学習院ト号ス」(『開校五十年記念 学習院史』)との勅旨を賜ったことで、校名が正式に「学習院」と定まりました。

(写真はクリックで拡大)

錦絵をご覧ください。校舎の背景に富士山が描かれていることからも分かるように、校門や唐破風(からはふ)の玄関を中心に据えた二階建て校舎は東向きに建てられています。実際の校舎はコの字型の建造物であり、絵図ではコの字の中心部、南北に延びる校舎の東向きの部分が描かれているわけです。正面には塔屋がそびえ、欄干のすぐ下、小さな窓がある3階部分は貴賓室となっていたといいます。

華族が通う学校として、その規模や豪華さは他の学校と比べようもありませんが、例えばひときわ目を引く門柱については、朝野新聞が下記の如く伝えています。

「錦町の華族学校の表門は鉄造で立派に出来上り凡三千円も掛つたといふが、定めて外国へ誂へたのかと聞けば大違ひ、武州川口での製造、凡鉄細工の類はどんな物でも川口で出来ぬものなしと云ふ。其の咄しを露西亜のミニストルが聞かれて、日本に是程の細工の出来る事は知らなんだとて、公使館の表門を欧羅巴へ注文したるを急にやめて川口へ頼む事になったと聞きました」(『新聞集成 明治編年史』M10年7月1日)

第26回でご紹介した学校の建築費がおよそ3000円前後でしたので、表門の製作費だけで新校舎が建てられるような金額です。とはいえ、この門柱は140年の月日を経て学習院戸山キャンパス(学習院女子大学)のシンボルとして現在も活用されているのですから、十分に価値ある支出だったといえるでしょう。文面からは、西洋にも引けを取らない見事な細工の鋳物製品を日本人が自ら生産できるようになったことへの自信と誇りが伝わってきます。

この他、「華族学校」ならではのゴージャスな造形物としては、日本列島の実際の形を模して造られた大掛かりな庭園があります。絵図に描かれていないのが残念ですが、この校舎の真裏、コの字型の教場に囲まれた中庭は、全国の名所古跡等を模した景色になっており、塔屋から見下ろせば、それはあたかも鳥になって日本国中を見た心地がしたそうです。「実景園」と呼ばれたその庭には歩道も作られ、生徒はその間を縫って歩くこともできたとのことです(『学習院大学資料館 ミュージアムレター№35』)。造園にかかった費用に関しては、東京曙新聞が「凡そ四万円程なりとぞ」と伝えていますので、現代なら数億円の費用をかけ、この前代未聞の景観を作り上げたわけです。

通学風景もまた、他の学校とは様子が違います。魯庵が述べているように生徒にはお供が付き従っています。お供の帽子をかぶった書生らしき人物が手にしているのは、当時珍しい手提げかばんですが、中には教科書や筆記用具などの学用品が入っているのでしょう。通学手段も馬車や人力車の送迎が用意されていて、歩いて通うなどといったこともなかった様子です。従者による送迎が付き、荷物も持たず、いわば乳母日傘(おんばひがさ)の通学風景といったところですが、実はこういった慣習が問題となり、ランドセルという通学カバンが学習院で誕生することとなったのです。

大事に育てられすぎることで柔弱な男子になってしまうことを危惧した学校は、近辺への車の乗り入れを禁止し、徒歩通学をさせることとしました。そこで荷物入れとして創出されたのが、名前の由来でもある兵士の背嚢(オランダ語でランセルといいます)を参考にして作られたランドセルなのです。荷物の持ち運びには風呂敷や袋物が当たり前という時代でしたが、背負うことで身体への負担が軽減されるランドセルは、通学カバンとして具合がよく、学習院では早くも明治18年に使用が定められました。一般の子どもがランドセルを持てるようになったのは、都市部でも昭和初期のことですから、半世紀近くも前のこととなります。価格は2円60銭、現在の価値に換算すると6万5千円以上と考えられます。

双六の「上り」として、中央に大きく描かれた「華族学校」ですが、明治19年、失火により校舎は焼失してしまいました。火災の原因は、当時最新の暖房器であったストーブの煙突からの出火だったそうです。絵図には4本の煙突が屋根の上に突き出し、在りし日の姿をしっかりとどめています。

さて、私の連載も今回で「上り」です。がむしゃらに西洋化を推し進めた明治初期の学校は、日本史上、最も熱い思いで教育を考えていた時代の産物でした。これまでご紹介したモノを通して、その息吹を少しでも感じていただけたなら幸いです。

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(本連載はこれで最終回となります。お読みくださいましてありがとうございました!)

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筆者プロフィール

唐澤 るり子 ( からさわ・るりこ)

唐澤富太郎三女 昭和30年生まれ 日本女子大学卒業後、出版社勤務。 平成5年唐澤博物館設立に携わり、現在館長 唐澤博物館ホームページ:http://karasawamuseum.com/ 唐澤富太郎については第1回記事へ。 ※右の書影は唐澤富太郎著書の一つ『図説 近代百年の教育』(日本図書センター 2001(復刊))

『図説 近代百年の教育』

編集部から

東京・練馬区の住宅街にたたずむ、唐澤博物館。教育学・教育史研究家の唐澤富太郎が集めた実物資料を展示する私設博物館です。本連載では、富太郎先生の娘であり館長でもある唐澤るり子さんに、膨大なコレクションの中から毎回数点をピックアップしてご紹介いただきます。「モノ」を通じて見えてくる、草創期の日本の教育、学校、そして子どもたちの姿とは。
更新は毎月第二火曜日の予定です。