『日本国語大辞典』をよむ

第4回 オノマトペ②:コケコッコウ

筆者:
2017年3月26日

オノマトペについての話題を続けたい。第3回において『日本国語大辞典』の見出し「ぎせいご(擬声語)」の語釈を紹介し、そこから「クツワムシ」と「キリギリス」の話題を採りあげた。今回はまず擬声語の話題に戻りたい。

紹介した語釈において述べられている「ある種の必然的関係」は、言語音と語義との間には必然的な関係がない、という「原則」(これを言語学では「言語記号の恣意性(しいせい)」と呼ぶ)にあてはまらない例として考えるむきがあったことを受けての表現であるが、近時、結局は「必然的関係」とは考えにくい、というみかたも提示されている。そのことについて簡略に説明すれば、ニワトリの鳴き声を聞けば、どのような言語を使っている人も同じようにその鳴き声を「聞きなす」とは限らないということだ。もちろん「鳴き声」に起点があるのだから、似ていることは似ているが、完全に同じにはならない。英語では「cock-a-doodle-doo」と「聞きなす」ことが知られている。フランス語は「coquerico」だそうだ。これを「ニワトリは国によって鳴き声が違う」という話にすることもできるが、全部「カ行音」が含まれていて似ているという話にすることもできる。カラスを表わす各国語にはK音とR音とが含まれていることが多い、という指摘もある。

現代日本語だと「コケコッコー」が一般的であろうが、『日本国語大辞典』には次の記事がある。

かけろ 【一】〔副〕鶏の鳴き声を表わす語。こけっこう。こけこっこう。かげんろ。(例略) 【二】〔名〕「にわとり(鶏)」の異名。

かげんろ 〔副〕「かけろ【一】」に同じ。

こけこおろ 方言 【一】〔副〕(1)雄鶏(おんどり)の鳴き声を表わす語。(以下略)

見出し「かけろ」においては、9世紀後期に成ったと思われている「神楽歌」の「鶏はかけろと鳴きぬなり」という使用例があげられている。「神楽歌」が成った頃には、ニワトリの鳴き声が「カケロ」と聞きなされていたことがわかる。見出し「かげんろ」には1548年に成立したと考えられている辞書、『運歩色葉集』の「かの部」に「可見路 カゲンロ 鶏鳴音」とあることが示されている。上にあげたように、日本においても、ニワトリの鳴き声の「聞きなし」は1つではなかったことがわかる。『日本国語大辞典』には「こけこっこう」という見出しもある。

こけこっこう〔副〕鶏の鳴き声を表わす語。

この見出しの「語誌」欄においては、先に示した「神楽歌」の使用例にふれて、古くは「カ行音で写されていた」と述べ、(2)として「「咄本・醒睡笑-一」(一六二八)にあるトッテコーや「書言字考節用集-八」(一七一七)にあるトーテンコーが一般的になっていたらしく、近世には、鶏の鳴き声をタ行音で写す傾向が見られる。」と述べられている。

「とうてんこう」も『日本国語大辞典』の見出しになっている。

とうてんこう【東天紅・東天光】【一】〔副〕(東の天に光がさして、夜が明けようとするのを告げる意の漢字をあてて)暁に鳴くニワトリの声を表わす。(以下略)

『大漢和辞典』にあたってみると、〈東の空、暁天〉を語義とする「トウテン(東天)」という漢語は、中国での使用例を伴って載せられているが、「東天紅」には『合類節用集』という日本の文献における使用例しか示されておらず、「トウテンコウ(東天紅)」はいかにも漢語っぽいが、日本でつくられた和製漢語である可能性がたかい。こういうことも、『日本国語大辞典』をよく読んで、『大漢和辞典』などを併せて使うと見当をつけることができる。

「こけこっこう」の「語誌」欄は「ふるくカケロとカ行音」「近世には(略)タ行音」と述べており、おそらく、時代によって鶏の鳴き声の「聞きなし」が異なるということを述べようとしていると推測する。そういうみかたもありそうだ。しかしその一方で、神代の昔から現代まで日本列島上に棲息していたニワトリの鳴き声は一貫して同じであったという前提にたてば、その「同じ」であるはずのニワトリの鳴き声がいろいろな語形として聞きなされていたことはまず明らかなことといえよう。時代によって異なるというみかたは、ある時代にはこの「聞きなし」が一般的、すなわち共有されていたとみ、異なる時代では、共有されている「聞きなし」が異なる、というみかたといえよう。

現代において「ニワトリの鳴き声は?」ときけば、多くの人が「コケコッコウ」と答えそうで、ニワトリに関しては「聞きなし」の共有度が高そうだ。しかし、「ネコの鳴き声は?」と聞いた場合は、「ニャーニャー」が多いだろうが、「ミューミュー」と言う人だっていないとも限らない。つまり、「聞きなし」に「揺れ」がありそうに思う。となると、たまたま残っている文献に残されている「聞きなし」語形から、時代による変遷まで推測するのはもしかしたら少々無理があるかもしれない、と筆者は思う。

そのことよりも、ニワトリの鳴き声のように、はっきりとした起点をもった擬声語であっても、いろいろな「聞きなし」をうみだすという、その「聞きなし」の「揺れ」はおもしろいと思う。

言語を観察していると、大多数がこうであるということに目がいく。80パーセントがこうなっていますということだ。聞いている側もなるほど、と思う。しかし筆者などは、「じゃあ残り20パーセント」はどうなっているのだろう、と思う。ひねくれているといえばひねくれている。前者を仮に「傾向」と表現し、後者を仮に「例外」と表現すれば、「傾向」あっての「例外」であると同時に「例外」あっての「傾向」ではないかと思う。100パーセント同じ方向を向かないことが少なくないところが言語のおもしろいところで、人間が使っているものだなあ、と思う。言語はけっこう人間くさいところがある。

次回はこのオノマトペの「揺れ」ということをとりあげてみたい。

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※特に出典についてことわりのない引用は、すべて『日本国語大辞典 第二版』からのものです。引用に際しては、語義番号などの約物および表示スタイルは、ウェブ版(ジャパンナレッジ //japanknowledge.com/)の表示に合わせております。

筆者プロフィール

今野 真二 ( こんの・しんじ)

1958年、神奈川県生まれ。高知大学助教授を経て、清泉女子大学教授。日本語学専攻。

著書に『仮名表記論攷』、『日本語学講座』全10巻(以上、清文堂出版)、『正書法のない日本語』『百年前の日本語』『日本語の考古学』『北原白秋』(以上、岩波書店)、『図説日本語の歴史』『戦国の日本語』『ことば遊びの歴史』『学校では教えてくれないゆかいな日本語』(以上、河出書房新社)、『文献日本語学』『『言海』と明治の日本語』(以上、港の人)、『辞書をよむ』『リメイクの日本文学史』(以上、平凡社新書)、『辞書からみた日本語の歴史』(ちくまプリマー新書)、『振仮名の歴史』『盗作の言語学』(以上、集英社新書)、『漢和辞典の謎』(光文社新書)、『超明解!国語辞典』(文春新書)、『常識では読めない漢字』(すばる舎)、『「言海」をよむ』(角川選書)、『かなづかいの歴史』(中公新書)がある。

編集部から

現在刊行されている国語辞書の中で、唯一の多巻本大型辞書である『日本国語大辞典 第二版』全13巻(小学館 2000年~2002年刊)は、日本語にかかわる人々のなかで揺らぐことのない信頼感を得、「よりどころ」となっています。
辞書の歴史をはじめ、日本語の歴史に対し、精力的に著作を発表されている今野真二先生が、この大部の辞書を、最初から最後まで全巻読み通す試みを始めました。
 本連載は、この希有な試みの中で、出会ったことばや、辞書に関する話題などを書き進めてゆくものです。ぜひ、今野先生と一緒に、この大部の国語辞書の世界をお楽しみいただければ幸いです。隔週連載。