『日本国語大辞典』をよむ

第102回 恋のやまいは熱っぽい?

筆者:
2023年1月22日

『日本国語大辞典』に次のような項目がある。

あしん【痾疹】〔名〕(「痾」は病、「疹」は熱病の意)熱病。*万葉集〔8C後〕一六・ 三八一三・左注「于時娘子係恋傷心沈臥痾疹痩羸日異忽臨泉路

使用例として、『万葉集』巻第十六に収められている3813番歌の左注があげられている。新日本古典文学大系『萬葉集四』(2003年、岩波書店)は「時に娘子をとめ、係恋けいれん傷心しやうしんし、痾Aあちんに沈臥ちんぐわし、痩羸そうるいひびに異ことにして、忽たちまちに泉路せんろに臨のぞみき」(筆者注:Aはやまいだれの中に「尓」)という「訓み下し」を示し、「その時、娘子は夫を思って悲しみ、病んで寝込んでしまい、日に日に痩せ衰え忽ち死に瀕した」と「口語訳」している。『日本国語大辞典』は見出し「けいれん(係恋)」を「心にかけて恋いしたうこと。深くおもいをかけること」と説明し、用例として、上の箇所をあげている。

さて、「アチン」は『日本国語大辞典』に見出しはないが、「アシン」に漢字列「痾疹」をあて、「「痾」は病、「疹」は熱病の意」と説明を加えている。一方、上に示したように新日本古典文学大系は漢字列「痾A」をあてる。『日本国語大辞典』が依拠している「本文」は「別冊」の「主要出典一覧」によって確認できる。それによれば、「万葉」は「万葉集・本文篇(塙書房)」に拠っている。一方、新日本古典文学大系は「西本願寺本万葉集を底本とし、新たに校訂を加えたもの」である。今、『萬葉集本文篇』(2002年補訂版五刷、塙書房)をみると、「本文は、西本願寺本萬葉集を底本とした」 (凡例)とあって、どちらも「西本願寺本」と呼ばれるテキストをもとにして「本文」がつくられていることがわかる。この『萬葉集本文篇』においては、「痾B」(筆者注:Bはやまいだれの中に「尒」)と印刷されている。『日本国語大辞典』が依拠している「万葉集・本文篇(塙書房)」と『萬葉集本文篇』(2002年補訂版五刷、塙書房)の「本文」は(この箇所に関して)同一であるかどうか、ということがまずあるが、すぐには確認できないことであるので、それは今は措く。今回注目したいことは、「痾疹」「痾A」「痾B」と、少なくとも3つの「かたち」が確認できるということだ。

まず、AとBとについて。AとBとの違いはやまいだれの内部が「尓」であるか「尒」であるかということなので、今AとBとを「尓」と「尒」に置き換えて話を進める。『大漢和辞典』においては、小部二画に「尒」「尓」が隣り合って見出しとなっている。「尒」には多くの情報が示され、見出し「尓」には「尒(4-7477)に同じ」と記され、『字彙』の「尓、同尒」という記事が示されているのみである。「尒」「尓」にはそれぞれUnicode番号として「5C12」「5C13」が与えられている。「尒」と「尓」とは同じと認めるのであれば、AとBとは漢字としては同じ字で、形状が少し異なる、すなわち異体字の関係にあることになる。

AとBとが異体字ということになると、今度はAあるいはBと「疹」との関係をどう考えるかということになる。『大漢和辞典』はAに「チン」という音を認め、Aを「C(7-22044)に同じ」(第七巻1164頁)(筆者注:Cはやまいだれの中に「火」)と説明している。Bは見出しになっていないと思われるが、AとBとが異体字であれば、その一方だけが見出しになっていてもおかしくはない。その一方で、『大漢和辞典』は異体字も多く見出しとしているので、このAとBとの「違い」は(もしもそれを形状としての違いとして認識することはできたとしても)それほど大きな「違い」ではないと『大漢和辞典』編集者が(あるいはそれぞれの時期の言語使用者が)判断した可能性もあるだろう。

『大漢和辞典』は「疹」字を見出しにして、🈩「シン」🈔「デツ・ネチ」🈪「キン」「チン」と発音によって4つに分けている。そして 🈩 🈔 🈪 の字義として「くちびるのかさ」「はしか。かざほろし」「はうそう」(疱瘡)「やむ」「ながわづらひ」「苦しむ」をあげ、の字義として「熱病」「やむ。やまひ」「かさねる」をあげている。そして、の字義「熱病」に続いて「C(7-22044)に同じ」と記している。つまり、チンと発音する「疹」字の字義は「熱病」で、この場合はC字と同じであるというのが『大漢和辞典』の記事ということになる。

わかりにくい話だったかもしれないが、ここまでを整理すると、結局やまいだれの中に「尓」が入ったA字、「尒」が入ったB字は異体字の関係にあり、チンと発音する場合のA字は、やまいだれの中に「火」が入ったC字と同じように使われる。一方、チンと発音する場合の「疹」字もC字と同じように使われる。AとBとが異体字で、AがCと同じように使われ、「疹」がCと同じように使われるということは、チンと発音する場合は、ABC及び「疹」は同じであることになり、「疑問は解消!」といえそうだ。『日本国語大辞典』と『大漢和辞典』をうまく組み合わせると、いろいろなことがわかる。

『大漢和辞典』はC字の字義として「熱病」「やむ。やまひ」「うまいもの」を掲げ、「うまいもの」の条には「美嗜。好美を以て人を誘ひ、其の心身を損ふもの」とある。『万葉集』の左注を記した人物は「アチン(痾A)」という語を使うにあたって、AとCとが同じであることがわかっていて、「心身を損なう」という字義が頭をよぎっていたのだろうか。新日本古典文学大系の口語訳には「夫」とあるが、「娘子」は「夫」が通ってきてくれないことを嘆いているので、タイトルは「恋のやまい」とした。恋情が心身を損なうということまで含めて「痾疹・痾A・痾B」という表現が使われていたかどうかということであるが、これも「書き手に聞かないとわからない」問いになる。

さて、少し前の話になるが、2021年10月10日から日本テレビ系列の「日曜ドラマ」枠で「真犯人フラグ」という連続ドラマが放送された。渋川清彦が演じる「阿久津浩二」という名前の刑事が登場するが、何かにつけて、「Aなの?Bなの?どっち?」と言うので、番組内で「二択デカ」と呼ばれたりしている。最初このセリフを聞いた時はわざとらしい、あり得ないと思ったが、ずっとみていると、ちょっとおもしろくなってくる。この「二択デカ」風にいえば、『万葉集』の筆録者は、Cの字義まで理解していた? いない? どっち? 筆者の答えは「理解していた」(だろう)だ。

筆者プロフィール

今野 真二 ( こんの・しんじ)

1958年、神奈川県生まれ。高知大学助教授を経て、清泉女子大学教授。日本語学専攻。

著書に『仮名表記論攷』、『日本語学講座』全10巻(以上、清文堂出版)、『正書法のない日本語』『百年前の日本語』『日本語の考古学』『北原白秋』(以上、岩波書店)、『図説日本語の歴史』『戦国の日本語』『ことば遊びの歴史』『学校では教えてくれないゆかいな日本語』(以上、河出書房新社)、『文献日本語学』『『言海』と明治の日本語』(以上、港の人)、『辞書をよむ』『リメイクの日本文学史』(以上、平凡社新書)、『辞書からみた日本語の歴史』(ちくまプリマー新書)、『振仮名の歴史』『盗作の言語学』(以上、集英社新書)、『漢和辞典の謎』(光文社新書)、『超明解!国語辞典』(文春新書)、『常識では読めない漢字』(すばる舎)、『「言海」をよむ』(角川選書)、『かなづかいの歴史』(中公新書)がある。

編集部から

現在刊行されている国語辞書の中で、唯一の多巻本大型辞書である『日本国語大辞典 第二版』全13巻(小学館 2000年~2002年刊)は、日本語にかかわる人々のなかで揺らぐことのない信頼感を得、「よりどころ」となっています。
辞書の歴史をはじめ、日本語の歴史に対し、精力的に著作を発表されている今野真二先生が、この大部の辞書を、最初から最後まで全巻読み通す試みを始めました。
本連載は、この希有な試みの中で、出会ったことばや、辞書に関する話題などを書き進めてゆくものです。ぜひ、今野先生と一緒に、この大部の国語辞書の世界をお楽しみいただければ幸いです。